「小物の争い。」
わたくしのスケールはいつなんどきも小さく、
そしてそんな人生が大変気にいっている。
ドーマンセーマンで有名な安倍晴明の晴明神社も
同志社のすぐ近くだった。
ちょうど京極夏彦がベストセラー作家になった頃の話だ。
僕のしあわせは僕自身が「しあわせだ」と感じなかった時間にこそ存在する。
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わたくしのスケールはいつなんどきも小さく、
そしてそんな人生が大変気にいっている。
ドーマンセーマンで有名な安倍晴明の晴明神社も
同志社のすぐ近くだった。
ちょうど京極夏彦がベストセラー作家になった頃の話だ。
ある脳の障害によって、何十年経っても見たものを見たまま描ける特殊な能力は存在する。
それが羨ましいかと言われると、わからない。
見たものを見たまま描く行為に自我はあるんだろうか。
誰でも鮮明に覚えている光景がある。
鮮明に覚えているのに、絵で描くと下手すぎて誰にも伝わらなかったりする。
あれを不思議だと思ったことはない?
僕は子どもの頃からずっと不思議だった。
頭の中にあるものを形にするには技術を習得する努力が必要だ。
でも感動があり、記憶があり、そこからスタートすれば技術の習得は大した問題ではない。
技術は必ず劣化する。
思い出は劣化しない。
むしろ美化していく。
美化、つまり美しいものへと変わっていくなら、
それが一番描かなければいけないものだと思う。
僕は美しいものだけが好きだからだ。
間違いなく、この日記がなければ僕は
自分に都合の悪いことはすべて忘却し、
「あの頃はよかったなあ」と遠い目をするだけの大人に
なっていただろう。
もしくは陰キャがどう、陽キャがどうと、ねちょねちょ
どうでもいい定義にこだわる人間になっていたかもしれない。
そういう意味では、
くるくる変わる気分と憂鬱、
その反動のハイテンションと希望が
日毎に交錯する「30年前のありのままの自分」が
みしみしと詰め込まれた日記は、人からもらった手紙とあわせて
僕の唯一の財産であり、資産である。
ツイートやブログのようなweb日記は
僕は絶対に日記とは認めない。
どれだけ「これは備忘録」「これは独り言」と
主張しても僕は認めない。
それは君自身ではない。