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1:2025.3.14 (23:01)

「小物の争い。」

わたくしのスケールはいつなんどきも小さく、
そしてそんな人生が大変気にいっている。

ドーマンセーマンで有名な安倍晴明の晴明神社も
同志社のすぐ近くだった。

ちょうど京極夏彦がベストセラー作家になった頃の話だ。

3:2025.3.17 (1:43)

「記憶を描くという強い衝動。」

ある脳の障害によって、何十年経っても見たものを見たまま描ける特殊な能力は存在する。
それが羨ましいかと言われると、わからない。
見たものを見たまま描く行為に自我はあるんだろうか。

誰でも鮮明に覚えている光景がある。
鮮明に覚えているのに、絵で描くと下手すぎて誰にも伝わらなかったりする。
あれを不思議だと思ったことはない?
僕は子どもの頃からずっと不思議だった。

頭の中にあるものを形にするには技術を習得する努力が必要だ。
でも感動があり、記憶があり、そこからスタートすれば技術の習得は大した問題ではない。

技術は必ず劣化する。
思い出は劣化しない。
むしろ美化していく。

美化、つまり美しいものへと変わっていくなら、
それが一番描かなければいけないものだと思う。
僕は美しいものだけが好きだからだ。

4:2025.4.1 (19:49)

「日記と自分語り。」

間違いなく、この日記がなければ僕は
自分に都合の悪いことはすべて忘却し、
「あの頃はよかったなあ」と遠い目をするだけの大人に
なっていただろう。

もしくは陰キャがどう、陽キャがどうと、ねちょねちょ
どうでもいい定義にこだわる人間になっていたかもしれない。

そういう意味では、
くるくる変わる気分と憂鬱、
その反動のハイテンションと希望が
日毎に交錯する「30年前のありのままの自分」が
みしみしと詰め込まれた日記は、人からもらった手紙とあわせて
僕の唯一の財産であり、資産である。

ツイートやブログのようなweb日記は
僕は絶対に日記とは認めない。

どれだけ「これは備忘録」「これは独り言」と
主張しても僕は認めない。
それは君自身ではない。