「この季節。」
がんばるよ。
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ナナさんはイケイケなお姉さんだったが
無理してんじゃないんすか、と聞いたら
そりゃ無理してるよ、と答えた。
なんで無理してまで元気に見せたいんです?
と続けて聞いたら
そりゃあお姉さんだもんと答えた。
僕たちはいつも本当に言いたいことの周りを
ぐるぐると衛星のように回っている。
3次元に置かれた存在を正確に2次元へ投影するのがデッサンだとすると、
漫画やイラストはそれを誇張してより極端に嘘をつく作業だ。
その嘘具合でいつも悩む。
このイラストもリアル目に寄せてはいるが、
実際の人間はこんなに頭が大きくないし、
腰もこんなにくびれてはいない。
僕はこの「嘘」に激しい抵抗を感じるので、
現実寄りの体型を描いてから少しづつバランスを変えている。
めちゃくちゃに時間がかかる。
子どもの頃から漫画を落書きしていれば、
自然にバランスが備わるんだと思う。
手癖と言うと悪い印象があるが、漫画やイラストには手癖が有効だ。
手癖をつけるにはとにかく数を量産するしかない。
それがまた楽しくてたまらない。
いまさら。
僕は大きくて遊具のたくさんある整備された公園よりも、
錆びて朽ちかけた小さな公園が好きで、
村木に呼び出されて話をした公園もよく覚えている。
ただ覚えているのはその雰囲気だけで、
名前や場所は全く記憶にない。日記にも書いていなかった。
以前ちょっと探した時にgoogleマップで候補を探してみたものの、
徒歩5分圏内に8箇所も小さな公園があり、
そのどれもが似たような、土地のすきまに作られたような公園のため
ストリートビューで見ても思い出せない。
たびたび真横を近鉄電車が通って、
大事なことを言おうとしては言い淀む、
そんなことだけを覚えている。
そんなことから、多分あの時の公園はここだったんだろうと思った。
30年前にこの公園があったのかどうか、
それは地元の人間ではなかった僕にはわからない。
そんな記憶にも残らない、
小さな小さな思い出が僕は好きだ。
僕は平熱が37度あり、
いつも体温が高い。
いきなり会ったばかりの人に
僕は体温が高いので手をあっためてあげようなどと言ったら
かなりイカれた人ということになるが、
友達であれば割と普通に言う。
そういう距離が友達の距離であり、
特に他意はない。
もちろん壁を高く築く人には触れたりしない。
そして僕はその壁を乗り越えてまで友達になろうとは思わない。
なんとなく手を繋ぎたくなる時はある。
それは恋人の手を繋ぎたい気分ではなく、
多分、幼稚園児が互いに手を繋ぐのと同じ感覚なのだと思う。
アトリエは凍えそうな寒さだった。
僕の暖房器具としてのプライドは高い。
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埴谷雄高の本名が般若豊というのがまずかっこいい。
僕も生まれ変わるなら般若家に生まれて名前負けしないように生きていきたいものです。
僕は高度経済成長やバブル期の「真面目に考えても無駄。世の中さくさく調子よく」
という空気が大嫌いでした。
だから僕が小中と過ごした80年代カルチャーは今もあまり好きじゃない。
歴史的な是非や思想的な功罪はともかく、
戦うものがあった時代に常に憧れを抱いてやみません。
吉本隆明と埴谷雄高を恐山のイタコを使って呼び戻し、
ついでに西田幾多郎か誰かも加えて現代について徹底討論をしていただき、
僕はそのLive配信を横目で見ながら、
女の子の絵など描いていることができればものすごく満ち足りることでしょう。
仕事でうまくいかないことがあったりとか、
家庭がうまくいってないとか、
病気とか経済的な話とか、
そういう明確な理由があって死にたいとか消えたいなら
どこかで自分に折り合いをつけることもできる。
ただなんとなく、
「もういいだろう?楽にしてくれ」
のような気持ちとは
どうやって折り合いをつければよいのか、
修行が足らぬ僕にはまだわからない。
直接言葉をかわさなくとも、いつも同じ人が同じところで同じことをやっている、それを見るだけで安心することもある。
僕をそう思って見ている人もきっといるはずだ。
そう思ってやっている。
だから僕は初恋というか片思いを恋愛経験にカウントしない。
自分の何が悪かったのかの答えを与えられることもなく、
単に拒絶されたなら、単純に自分が嫌われてただけの話だ。
それを認めるか認められないかだけの話で、
そこから立ち直れないのは立ち直る気がないからだと思う。
なので立ち直れない人間に対して僕は全く同情しない。
嘘をついているつもりはなかった。
だが結果的には嘘になった。
ロマンティックな苦痛とは全然違う、
あの、嫌な気持ち。
思ってなくても好きって言えるんだよ、一度言ってしまえば。
好きだと思ってたけどやっぱり嫌いでした。
これは苦しい。
しかし、それもまた時間が解決した。
引きこもりたい時もあれば、
何もできないこともあれば、まあ色々なんで
言われるまでもなく自分の好きにする他ないわけですが。
自分の不安を人に八つ当たりすることが、
僕にとって一番自分の首を絞めるのです。道徳じゃなくてね。
それはネットでも現実でも一緒で、
八つ当たりするたびにどんどん追い込まれる気分になる。
僕は「まー遊びほうけてた報いだねえ」と諦めながら、
思い出話ばかりを語ります。
それで済むのなら、それが一番いいと思っています。
さみだれちゃんはずうっとこちらを見ている。
絵では目が出ているが、
実際は前髪を伸ばして目を隠している。
いつもこの絵と同じ格好をしている。
似たようなパーカーなら一着買ってあげようかと言ったことがある。
さみだれちゃんは何も言わない。
でもいやそうなのはわかったので僕もそれ以上何も言わない。
多分そのパーカーじゃないといけない理由があったのだ。
僕はそれを知っている。
知っているが知っているからといってどうにもならないので
僕は下着や靴下だけを洗濯する。
いつもぐにゃっとしている。
立つとぐらぐらしている。
でもずうっとこちらを見ている。
何があってもこちらを見ている。
傘を持っているのに、なぜか自分の傘を貸そうとする。
僕にはまず「マキタが傘をさしている」ということが見えてない。
「どしゃぶりだから何とかせなあかん」でいっぱいになっている。
メガネを額に乗せた波平が「メガネメガネ」と言っている状況に酷似している。
初恋とは波平のメガネである。
僕はなんでもいいからいい格好をしたかった。
制服の中でもブラウスを特に描きたい。
これは説明すると余計誤解を生む気もするけど、
女子のブラウスのしわの寄り方が一番描いていて楽しく、難しく
絵的に魅力がある。
ブレザーやスーツの上着は、大きなしわが寄って
大きな形を立体的に描きたい時には魅力的だけれど、
僕はもう少し柔らかい素材で、細かくしわが入る状態の方が
描いていて楽しい。
僕はもちろんブラウスを所有したこともなければ、
手にとってまじまじと観察したこともなく、
着たこともない。
へたすると左前か右前かすら間違える。
つまり無知だ。
スカートもそうだが正直どうなっているのか今もわからない。
そして調べようともあまり思わない。
機能には興味がないのだと思う。僕がスカートを履くことはないからな。
無知なものを遥か昔の記憶と想像で描くのがいい。
描いているうちに気づくといいなと思って描いている。
絵的に映える絵を優先するなら、男性の体の方が見栄えがする。
凹凸が大きく、影ができやすいので描くところがたくさんあるからだ。
これは男女両方のヌードデッサンをやるとわかる。
男性を描いた方がうまく描けた気がして満足度が高い。
石膏デッサンのモデルになる彫刻も、男性の彫像が多い。
柔らかいものを描くのは難しい。
何を描いても僕には難しいわけなんですけども。
胸側は描くところが色々あるんで描きやすいんだけど、
背中は何もなくて途方に暮れる。
背中を上手に描ける人は本当に上手な人だと思う。
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逸脱TVというチャンネルで、統合失調症の患者を追いかけたドキュメンタリーが公開されている。
僕はこのシリーズが好きで最初から追いかけていた。
一昨日、第一章が完結したという。
最初から追っていくと、不思議な感覚に襲われる。
このひとが狂っているのか、自分が狂っているのかわからなくなる、という感覚だ。
頭のネジが我知らずずれてしまった人と話しているといつも感じる。
狂っているのは俺なのか世界なのか。
それを俺一人で考えることに意味はあるのか。
子どもの頃からよくそんなことを考えた。
以前、予備校の隣の部屋だったオガワくんの話を描いた。
上記ドキュメンタリーの主人公・野田さんの強い名古屋訛りを聞いていると
オガワくんと重なる。そして言っていることも雰囲気も、
おかしくなってしまった後のオガワくんと非常によく似ている。
ぴくちゃんもこんな感じだったが割とすぐ治った。
オガワくんは僕が京都の大学に進学した後、更に重症化し、
毎夜毎夜電話をかけてきて、さすがにもうだめだと僕が出なくなった後、
「ごめんなごめんな」と連呼する留守電を残し、それ以来没交渉である。
心のどこかに引っかかっている。
僕はこういう時、彼彼女らに最後までつきあってしまう。
それがよかったのかどうだったのか、今もよくわからない。
さっさと病院に入れた方がよかったのかもしれない。
そしてまた考える。
病院にいなきゃいけないのは僕の方じゃないのかと。
最近、一週間にいっぺんくらいは
このようなきもちをもてる日が出来た。
これが40代の苦しみを突破したということなのか、
これから始まる更なる苦しみへの予兆なのか、
それは僕にはわからない。
しかしどう笑われようと
自分語りは必要なのだと固く思っている。
「時代が違いますよ」はもう聞き飽きた。