「僕たちの夜。」
「誰かとつながっている」
というのは余計寂しさを感じる感覚だと僕は思う。
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「誰かとつながっている」
というのは余計寂しさを感じる感覚だと僕は思う。
だまされた、って言われてそんなに不愉快な言葉でもないですけども。
いつもどこかで期待を裏切りたいという気持ちはあるから。
いつかその日まで。
呪われなければならないと思う。
苦痛が続けば続くほどよく描けます。
因果なものです。
こんなことを何度繰り返しても
大人にはなれないということを。
何がどうなってもイヤなんですよ。
自分のことがイヤな間は。
僕はマンガやアニメのフィクションに出てくる
「物語のためにはっきりと役割を与えられた」人間関係よりも
幼なじみにしろ友だちにしろ恋人にしろ、
なんだかぼんやりとしたよくわからない、
現実の人間関係が好きで描きたいと思っています。
この錯覚は学生時代で捨てなくちゃいけない錯覚だと
だいぶ後で思いました。
こんなどうでもいいことを描いていると
何故か心が休まるのです。
「優しい」の基準は自分の経験値ですぐ変わるからちっともあてにはならない。
「考える」には言葉を使うしかないが、
考えなくても理解することはできる。
運命なんて後から付け足したこじつけにしろ、
必要な季節に必要な人間に出会うように出来ている。
それに気づくか気づかないかで道は分かれていくのだと思う。
僕自身、真夜中の孤独にどうしても勝てず、
迷惑を承知で先輩や友人に電話したり呼び出したりした経験がある。
だから友だちに呼ばれればどんな理由があってもほいほいと出かけていった。
それが「友だち」の距離感であり、呼ばれて行って拒否されても別に構わなかった。
だから僕はそんな関係以外の関係を友だちとは呼ばない。
楽しいことはすべて忘れた。
何年か前、ものすごく無理をしておいくらまんえんの5合炊き高級炊飯器を買ってあげたが
「精米も炊飯も食べる分だけ行うべきである」との理論により
家内ちゃん専用の小釜を購入するに至った。