「1995年2月3日深夜」
この日は特に印象に残っていて、日記も細かく書き記してあるのだけれど、この曲を弾けば更に記憶が戻るだろうと勝手に思っている。
戻ったから何だ、という話ですが、
失われたものを取り戻したいと願うのは生理的欲求だ。
25年前。
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この日は特に印象に残っていて、日記も細かく書き記してあるのだけれど、この曲を弾けば更に記憶が戻るだろうと勝手に思っている。
戻ったから何だ、という話ですが、
失われたものを取り戻したいと願うのは生理的欲求だ。
25年前。
家内ちゃんは理屈っぽいんだが、
理路整然と全く理屈になってないことを言う。
「意味わからん」と言うと理屈っぽく
「なぜなら私は夫にもわかるように噛み砕いて説明している」
と答える。それも全く意味がわからん。
まあよい。
コミュ障でなく天然。
天然の割にウラオモテ激しく顔に丸出し。
人に敏感なんで、ちょっと強く言うとアワアワとなる。
そのアワアワも自分のことだけ考えている。
底は浅い。
かわいくなくもないが年齢次第。
今思えば、
あの悪寒のことを承認欲求と呼ぶのだと思います。
褒めてもらいたくて上手に描こうとしてるのに、「上手だね」と褒められるとイライラする、わかるでしょう?
そうじゃないんですよね。見て欲しいところは。
マキタの話は17、8の時で、村木の話は20歳くらいだから、月並みだけれど、この頃の1年2年て人生の中でかなり比重が重い。
僕の人生には波乱万丈など何もない。
だからこうした経験と言葉だけが記憶に残る。
聞いて欲しいなら、聞いてもらえる人間になるしかない。聞いてもらえる人間になるには、まずちゃんと聞けるようになるしかない。
という基本さえ自分のことだと気づけない。
空気なんか読めてもこういう時何の役にも立たない。
まずルサンチマンをきちんと勉強するといい。
そして人が簡単に発するルサンチマンに共感しないよう、いいねボタンを押さないよう気をつければいい。
それだけで自分にとって必要ない人間は自動的にいなくなる。
「理解してほしい」は大体「理解してほしい」以外の本音が裏にある。
そんなこと言われたらもっと冷める。
こんなに好きなのに諦められない。
どうしたらいい?
どうしたもこうしたも諦める以外に選択肢はない。
苦しんで諦めろ。
欲しがりません死ぬまでは。
というわけには行かない現実。
「これ俺が悪いんか?」「自分で渡すべきだろ」などと自分を正当化してると使えない人間になっていく。
逃げ癖や責任放棄の「メンタル弱い」は、味方がいると悪化する。ストレスは溜める方がいい。
僕はそうだった。
自分の話をただ語ると幸せだ。
それが暗い話でも明るい話でも。
人と話し合ったって何も幸せにならない。
意見や主張を述べてると、
めくらになって気持ちよくなるかわりに
幸せは赤方偏移で遠ざかる。
実は去年の初めに一度寛解(完治は一生しないがまあ大丈夫そうという状態)まで出たんですが、
再発率9割は嘘でなく、仕事戻して2週間で再発した。
本当は絵も描いちゃいけないのだ。
根詰める性格だとだめだね。
誰もが無言になるしかない世界を創りたい。