独り言(2025.7.12~24)

2025/07/24

ロリコンについては一度ちゃんと調べたり考えたりしたいなとは思っていました。
いわゆる小児性愛と呼ばれる病気について、またその特徴などについてはわたくしは無知です。

わたくしも指をさされて「お前はロリコンだ!」と言われれば、そうでないと反証したいところですが、具体的にどう反論すればよいのかわかりません。

ロリコンの言葉の範囲が広すぎます。ロリでなくてペドだとかネット的な言い回しは色々ありますけど、考察すべきは「実際に手を出してしまう=傷つけてしまう」というところにあって、

ロリ大好き!とか言ってるだけなら、ああそういう自己アピールねで終わりなわけなんですけども。

こないだの盗撮事件以来、ちょっとわたくしには信じられんなという部分もあり、先天性なのか後天性なのかも気になるところで、学術的あるいは哲学的にロリコンを調べたくはなっています。

遊びで婚活やってる子の話を聞くと、
年収の高い医者とか教授とかそういう人たちはいっぱいいるらしいんだけど、一般的な感覚とずれすぎてて、いきなり初対面でブランドもののバッグをプレゼントしてこようとしたり、とにかく金をもってるということをスマートじゃないやり方でアピールする人が多いってね。

まあそういう人はいるとしても、男同士でプレゼント交換しあう文化がないってこともあるよな。

女の子同士はしょっちゅうコンビニで売ってるくらいのもの交換しあってるじゃない。あれは自分もつっこんでって仲間に入れてもらうべきだと思うね。

高いものばんばんくれる金持ちの男が好きって人も中にはいるだろうし、それはそれでいいと思いますけど、もので愛は買えんしな。そういうお店に行かない限りは。

わたくしは今でも、例えば人気者がいて、わーって人が集まってるとおそれをなして引っ込んでしまう方なので、同じような感じの人のがまあつきやすいですわね。

といってじゃあ人気者だから嫌いかっていうとそうじゃないですけど。

人気者でも人気者扱いされないと我慢できない人は苦手ですが、ふつうにつきあえる人は当然好きです。

でもストリートファイター2が出てきて、対人格闘が主流になってからは、あれってすぐ終わるじゃないですか。それにすぐ終わっても「相手より自分が弱い」って納得感があるというか、ゲーム自体に文句言えないところがある。

というわけでどんどん格闘ゲームが隆盛して、他のジャンルが縮小していったわけです。
シューティングゲームはもともと、上手いやつはいつまでも死なない(もうからない)という構造だったんでねえ。

わたくしは人じゃなく、ゲームを作る側と勝負する方が好きだったので、初代スト2のハイスコアアタック(引き分けに持ち込んで点数を稼ぐとか)まではやりましたが、鉄拳・キングのワンダフルメキシカンコンボに感動した以外はほぼ格闘ゲームはやっていません。

今もマルチは一度もやったことないです。

むかしのアーケードゲーム(ゲームセンターのゲーム)って、100円いれて大体2~3面くらいまでは楽にクリアできるように作られてて、その後急に殺しにかかってくる感じなのです。

100円で何十分も遊ばれても困るしね。といって1面もクリアできないんじゃ誰もやらないし。

そういうことを後で知ってからやるとまた味わい深くはあったりします。そういうシビアなところがゲームセンターが好きだった理由でもあるし、まあファミコンとかより圧倒的に画面も音もリッチだったってこともあります。

ゲームの話したいなあ。

まずわたくしが「シューティングゲーム」という言葉で連想するのは対人間の殺し合いゲームではない、というところから。

あんだけ金と時間を注ぎ込んだのに全然クリアできなかったゲームばっかりです。というかクリアできたシューティングゲームなんてあったっけ。

フェリオスのイージーモードとファンタジーゾーンくらいじゃないかしら。

ITさえろくにわかってないのに、ITの応用であるDXが成立するはずもないんだけど、問題は専門性と分業化なんじゃないですか。

2010年くらいから世界は急速にオタク化し、オタク的なものの見方を是とする方向に向かったと実感しています。
SNSの普及がそれに拍車をかけたというのも、大きくは間違ってないでしょう。

わたくしが自分に求めているものは、ジャンルで壁を作って外に出ないという深堀り方向ではなく、ルネサンス的な「とりあえず何でも屋」的な視点です。

なんでもやろうとする人間は、何をやりたい人間なのか外から見てるとわからないものですけど、なんでもやりたいのですよ。ええ。

わたくしはAIモデルの学習原理とか、各AIの特徴とかには強い関心がありますが、もうあんまりAIにものを尋ねるということはないですね。
4~5月は全てをchatGPTにたずねていましたが。

喫茶店ルノアールにいくと、後ろから画面を覗ける状態で、堂々とAIを使って業務内容を出力しまくっているコンプラ意識の薄いおバカさんがいーっぱいいます。

わたくしがちらっと見ただけでもだいぶ内容を覚えられます。
ピアノをやっていると、文字を目で追わなくても全体画像として画面を記憶するのが得意だからです。

かつでかい声で長時間オンラインMTGしてるんで、「それはここでやっていいのかどうか」が全然関係ないわたくしに判断がつくくらいの情報漏洩です。

ましてやその画面写しっぱなしでトイレ行ったりするしな。

人によってはフェイクを入れてるって言いつつほぼ特定できるような書き方をしてたり(あれは実は探してくれ特定してくれって自己顕示なんではと思ってるんですが)、引用や参照に平気で名前(ハンドル)を入れたり、そういう感覚はだいぶ違うなあと思ったりします。

わたくしなんかは個人的な内容の場合「とある人が語っていたけれど」みたいにかなりぼかして表現するんで、「自分のところから変なやつを送り込んだら大変だ」という防衛意識が強いです。

卑怯っちゃあ卑怯かもしれん。

盛るとかフェイクとか言うけど、要は嘘なわけで、
普段から嘘をつき慣れてる人たち、という目線でわたくしなどは見てしまうわけで、なんか信用できんなという気はします。

多分色々正当な言い分はあるとは思うんだけどね。

30年経ってたり、モザイクをかけたり、仮名にしているとは言え、かなり現実に近い形で人のことを描いているというのは、まあ結構な罪悪感はあります。

わたくしの世代はSNSなんぞやってる人間のが少数なんで、ほぼネット上で友達を見つけるということは不可能っちゃ不可能です。

またどう検索したところで個人情報なんか出てきません。
であるが故に自由に描いてるということもある。

学校時代に既に何かしらネットに記録が残ってる可能性がある世代だとそういう友達や初恋を後で書くことの罪悪感とか抵抗感とかどうなんでしょうか。身バレするとか恐怖なのかな。

2025/07/23

さすがにわたくしも白ブリーフは所有しておらんですね。
小学校の時ははいてた気がしますけど。むしろどこに売ってんだ。

そういやわたくし、服のサイズ6Lとかなんで通常の店では売ってません。ユニクロだと4XL(最大サイズ)ならゆったり着れますが、昨今巨デブが多いらしく、オンラインストアに並ぶと同時に売り切れるようで、家内ちゃんがすごい速さで連打して買ってくれます。

わたくしは自分のサイズすら正確に知らないので家内ちゃんが勘で買ってるんですが、着れなくて返品てことは少ないので、そういう眼力はあるんだなあと思いました。

あ、家内ちゃんも服屋の店員時代がありまして。

この真ん中の、水がでてくるところとその下の石をつくばいと言って、よく茶室のそばにおいてあります。

わたくしはこの庭のつくばいの前に座って、ぽたぽたと竹から水が出てくるのをじーっと見てるのが好きでした。

きれいに咲き乱れる花壇よりも、シダや苔の生えてる場所が好きで、まあね、そんな趣味につきあってくれる女子はあんまりおらんです。
退屈だもんねえ。

ヨシダはよほど特殊だったんだと思います。

庭園の蹲踞(つくばい)。

ものすごいエネルギーに溢れてて、ハツラツとしてた人がさ、久しぶりにあったらほんとに仏像というか地蔵というか、表情もない、反応もない、こんなにも人間って変わってしまうのかとびっくりします。

ね。

顔が見えなくて文字だけだと、どうしても自分の想像の外にあるものを想像しなきゃいけなくって、限界があるなあといつも思う。

ほんとに中年男性ってカテゴリーは強力に肩身が狭いなって痛感すること多くてねえ。そこまで忌み嫌われるもんなんかしら。

充実した人生を歩んでいるわけじゃないが、そこまで孤立してもいない、なんでもそこそこなわたくしが嘆くのは違うかもしれませんけど、これやっぱ孤立したまま年齢が進むとキツイと思うわ。

どうしても我慢しちゃうんでねえ。
我慢はよくないよ、という話です。

ちょっとしたことで毎度大騒ぎすると、どうも白い目で見られがちではあるんですが、結果的にその方が正解だと思います。

わたくしの最大の失敗は、ネットで症状を調べて自己判断、というところだったんで、大したことなくても病院には行った方がいい…
と言いつつも医療崩壊が叫ばれる中、行きづらいのもまた事実なんですが。

倒れる前にサインは色々ありましたよ。
咳がとまらないとか、ひんぱんに足がつるとかね。
2年くらい続いてた気がします。

一応近所の呼吸器科の個人クリニックには行ってたんですけど全然治らなくて、倒れて大病院で色々検査した結果、やっとまあ原因が特定できた感じでした。

倒れるというか、もう限界という時点での直接的な原因は肺炎だったんですけど、その肺炎は別の臓器がだめになってるところから来てて、肺炎自体は入院一週間くらいでほぼ回復しました。

あとその後の8年間はあちこちの臓器不全を「治療法なし」ながら薬でバランスをとってる感じです。

青春モノクロームのベースになっている日記の一部です。
わたくしは罫線が入っていない方が好きなので、だいたい無地です。

時系列を無視するのは実際の日記もそうで、順番に書いていく時もありますが、適当に開いたページにポエムのように書くことが多く、日付を入れてないといつ書いたかもわかりません。

また例えば7月23日の日記に余白があると、そこに12月20日のポエムが書いてあったりしてデタラメです。

日記と呼んでいいのかもわかりません。
昔っから時系列には全然興味がありませんで。
なのでミステリー系小説全般が苦手です。

古い本が3冊重なっています。

ジャニスことまいちんことヨシダマイに日本美術史のノートを貸したら、わたくしのノートに直接礼を書きこんでくるという雑な対応ぶりに、ああこの子とは友達になれるなと思ったことを覚えています。

手紙もいいし、ノートもいいですよね。なんだか。
手書きはやっぱりいい。

まいちんの字と、下のわたくしの字だけで性格超わかりません?

筆跡鑑定に興味を持ったこともありましたが、あれ公的な資格があるわけじゃないんですよね。筆跡診断みたいなものなら勉強しなくてもすぐ出来そうな気がします。

手書きメモ:感謝と歴史に関する内容

クラシックって、モーツァルトとかショパンとかっていう作曲家がまずいて、カラヤンとかフジコ・ヘミングといった演奏家がいて、更に何年何月何日にどこで演奏されたものか、というところが重要です。

カラヤンが指揮した同じ曲にしても、どのオーケストラを率いて演奏したかでも変わるし、
同じショパンの同じポロネーズの同じフジコが弾いた曲でも、演奏日が違うと別の演奏です。記録は膨大です。

その辺がややこしい話でもあり、どれだけ追いかけても追いつかない深さでもあります。

クラシックのCDは何千枚も買い集めました。パソコンという便利道具がない時代ですんで、逐一自分で整理しておかないと、どの演奏がいつのものなのかわからなくなります。

わたくしはそういうことには案外マメで、こんな風に日本語に翻訳してノートに整理し、データベース化していました。
事務作業は苦手ですが、こういうことは好きなんです。

その辺は男性っぽいかなあと思ったんですが、
家内ちゃんは更にわたくしの上をいく分類魔なので、男女関係ないんだろうなと思います。

手書きの音楽関連のノート。

山口百恵はわたくしが生まれた頃の歌手なんであんまりよくわからないんですけど、どうしてこの週刊誌はこの写真を表紙に使ったんだろうって気になりましてね。なんか見てると不安になりません?
昭和50年2月号。わたくし0歳。

でもこの表情、わたくしは好きです。
マキタもまあこの方向の顔でした。

女性の顔が表紙の現代雑誌

手紙とLINEの違いって、手紙は自分で送った内容は覚えてないってこともあります。LINEだと自分が言ったことも後からわかりますけど。

だから怖いんですよね。怖いから時間かけたりはします。
ただ手紙とは言え、こみいった深い話は重たくて避けがちでもあり、やっぱり○日○時になんとか公園で、みたいな内容になってた気がします。そういう感覚は今も昔も同じかもしれません。

「読みました」のメッセージもそうで、手紙に近い形ですからコピーでもしとかないと自分が何をわたくしに送ったか後で確認できません。

それでいい気がします。
いつでも確認できると、書くことなくなっちゃいますし。

この話書きましたっけ、言いましたっけ、って書きつつ、前と同じことが送られてくることは受け取る側としては嬉しいものです。
その人が考えることはやっぱり同じなんだなと思えるからです。

自分の中で大事なことは、時間を経ても形を変えてもやはり同じ言葉で繰り返される、それがとてもいいと思っています。

そのせつは」の写真です。
写真を撮ってるのはオータニです。

「諦めきれない」という気持ちはわたくしにもよくわかるんで、粘着的な行動をとってしまうのも高校生ならしゃあねえなと思います。

ただわたくしの時代は「自宅の固定電話に電話する」以外の連絡手段は存在しないので、待ち伏せてつかまえるか、普段我慢して我慢して機会を注意深く探すしかチャンスはありませんでした。

手紙は親が開けたら終わりだしね。
粘着しようにもできない時代だったとも言えます。

諦めの悪い性格だったとしても、毎日待ち伏せしてつきまとったらどうなるか、さすがにわかります。自分一人で自分にわからせるしかしょうがないのです。失恋とはそういうことです。

声を大にして言いますが、つきまとったりしつこく連絡をとる行動は純粋な自己愛・自己憐憫であり、相手のことを好きだからではありません。
その恋愛は恋愛として全てが間違っています。

少し落ち着いたら、いつまでも引きずって次に進まないことこそ、相手にとって大概迷惑なのだという風に考えないといつまでも思い出になりません。

二人が雨の中で傘を持つ。

ヨシダを無理やり連れていく墓場のうち、お気に入りの一つです。
日が落ちると完全な闇です。

これ今ストリートビューでスクショしてきたんですが、いつのまにか土台がセメントになってますね。
ずっとずっと土のままだったんです。
雨降るとはじっこが崩れだし、えらいこっちゃでした。

墓場の一番左にうつっている小さな屋根が、「自分たちにもよくわからない話」で描いた火花地蔵です。

広い田んぼの中の墓地

蔵。
ってこんなんです。

木造の日本の伝統的な蔵。

2025/07/22

この自分語りへの情熱をお金儲けに注ぐと、安定収入にはなるんですが、もう色々嫌になってねえ。

手取りが1千万でも2千万でも、今みたいに貯蓄なんもないのに収入0になってしまっても、やってること考えてること、いつも全く一緒です。

家内ちゃんはそれでもわたくしの行動を制限するようなことは絶対にしないし言いませんから、助かってますよ。うん。

今日も高級カステラを今食べるか食べないかで冷蔵庫の前に1時間くらい座って考えこんでいます。

教育って最終的には「簡単に切り捨てないこと」だとわたくしは勝手に思ってましてね。

現実的にそれではたちいかなくなってるのが今なんで、お花畑と言われるとその通りかもしれませんが。

でもね、「しにたい!きいて!かまって!」っていう子がいた時に、「わたくしの契約時間は5時までですのであしからず。ああ5分も過ぎてしまったじゃないか、さよなら」ではそりゃいろんなものが滅びるわと思っちゃいません?

ねえ。もうちょっとだけでもなんとか。
「無理強いはよくない」のは確かなんですが、行き過ぎです。

なぜこんなにもしつこく語るかにも理由はあってね。

わたくしは、わたくしに怒られてひいいとなり(あるいは逆ギレして)、そのまま逃げてしまった人に帰ってきて欲しいと思っているからです。
結構いるんです。現実にも、ネットにも。

もちろんいなくなってしまった人はこんなもの読む機会はないので、本気でそう思ってるならもっと具体的に行動すべきなんですが、そこまではやってられません。面倒で。

わたくしはどうしても90年代中盤の個人サイトの時代に時間を巻き戻したいのです。わたくしの当時のコミュニケーションは、これを一人一人にえんえんとやり続けるという方法でしたので。

それが対等ということだとわたくしは考えています。
自分語りとはそういうことです。
レスバではないのです。
あれは地上から消滅した方がいい文化です。

わたくしの生徒にマキタのマンガを読ませたところ、
高校の時、先生が好きな子にストーカーした話?」と要約しました。

これどうですか。わたくし怒ると思いますか。
全くです。「そのとおりだよーでも好きだったんだよー」と回答しました。

一方で「いい歳したおっさんの自分語りマジでうぜえ
このエアリプはどうでしょうか。一瞬ムカッとしましたが、「確かに」とも思ったのですぐ忘れました。

あと多分、それは結局ブーメランなのになあと思うとあまり腹も立ちません。

さて「こいつのすべてが虚言癖で草
これがわたくしが瞬時に激昂し、いまだに憎悪の炎が消えない一文です。わたくし自身も知らなかった、わたくしの底しれぬ怒りを引き出してくれた名言でもあります。「こいつ」「虚言癖」「草」わたくしの地雷がすべて埋まっています。

どうでしょう。
「えーでもそれってそこまで怒ること?」って思いませんでしたか。
実はそれが正しい反応だと思うんですよね。
つまり、それがSNSでの適正な距離なんだと思います。

わたくしが言いたいのは、その「ズレている」を教育・矯正する自浄作用があったということなんです。
今はもう「バカは治らん」という空気が蔓延して、「ブロックでさよなら」という端的なものになってしまいました。

数が多すぎて教育なんかしてる余裕がないからです。

また、SNSは自分でルールを決めることができず、「みんなの空気」に沿う必要があるため、そもそも何故自分がズレているか認識できない人にとっては、使えば使うほど孤立するツールになってしまっています。
フォロアーは仲間じゃないんですよ。傍観者です。



わたくしがなぜこんなヘンテコで遠回りなコミュニケーション手段をとっているかというと、「SNSは問答無用すぎるから、失敗しても学習すれば戻ってこれる」という風にしたかったからです。

わたくしも失礼なことを言われれば怒りますが、しつこく粘着されない限りすぐ忘れます。まず「粘着」、最優先でこれを正確に認識しないと治らない。こちらが忘れかけてる時に同じことやるからダメなんです。

これは友人関係でも恋愛関係でも同じでしょ。
粘着質な性格は矯正できませんが、行動は自重できるはずです。「自分は病気なんで…。」だと通報するしかなくなるじゃないですか。

自分の行動で相手の選択肢を奪った結果、拒絶された。
なぜそうなったか、一番カンタンに反省するチャンスは失恋です。
そんなもんをトラウマとか言ってるヘタレはだめです。

いにしえのインターネット文化にBBS(掲示板)というものがありまして、たいていの個人サイトには設置されていました。

まあYouTubeチャンネルとコメント欄だと思って大丈夫でしょう。
そこで交流してたわけですね。

勘違いしがちなんですが、インターネットのマナーは現在の方がはるかに整備・共有されています。だからおかしな人間がいると、すぐ血祭りにされます。

ズレている人には昔の方が生きやすかった、という可能性はありますね。

でも「パソコンを所有している+接続することが出来る」というスキルはそこそこ知的ハードルが高かったため、そもそもズレてる人の数は少なかった。

「おかしな人」は、親に全部やってもらってるキッズが多く、そうしたキッズを嫌う人間が大多数だったため、ローカルルールは今より徹底してたような気がします。

掲示板から締め出されたキッズが次に考えるのは自演です。
「先日この掲示板で失礼を行い、立ち入り禁止になりました○◯の母です」などと自演をして別の端末から書き込むわけですね。許してくれと。

そこまで1セットで嗤いものにする、というのもいにしえの文化です。

「近代小説~現代文化史の授業」という単語だけで甘酸っぱいですな!羨ましい!
もう授業で95年のこととかをやるんですねえ。30年も経ってるから当たり前か。わたくしの青春など既に歴史の1ページです。ええ。

むしろわたくしが嘘を描いていないことの証明になってるといいな。

わたくしは大学2回生の95年から丸5年間、ほぼ一度も授業に行かずに放埒の限りを尽くした挙げ句除籍になるという、どうしようもないモラトリアム学生でしたので、「授業に行って勉強しておる」という時点で、あなたの方がだいぶわたくしよりも上等な人間だと思います。

心温まるメッセージをありがとうございました。
気が向いたら気の向くままに思ったことをお送りください。

バンド人間椅子の和嶋さんも、「続けるこつは何をどう言われても、自分は格好いいのであると頑なに信じることだ」みたいなことをインタビューでおっしゃられてたんで、それはその通りかと思います。

そしてそれをきちんと回答していいのは、世の中に認められた人間だけだということですね。

まあ格好悪いんで言わないようにはしてんですけど、
わたくしすごくないですか。
熱意だけは

自己表現に関してのね。
創作じゃないんですよ。創作活動なんてしてないので。ええ。
芸術活動もしてませんね。あくまで自己表現です。

継続が力になるのかどうかは疑わしいところですが、この熱意というかやる気というか、今やってることに夢中になる感じは子どもの時からそうで、周りが見えなくなるんで人は離れていったりしましたけどもね。

ただこれって教えようがないんですよ。元からあったんで。
どうしたらやる気って出ますか、という質問に「もとからあった」なんてふざけた回答しかできないわけです。

そういう精神論的な回答しかできないこともあります。

鈴鹿市はサーキットがあるからか、暴走族やらバイク乗りの聖地化してるところもあり、それで交通事故が全国ワースト何位とかだったんじゃないですか。なんかそんな話も交通安全講義で聴いた気がします。

中学校の時は交通事故ビデオをノーモザイクで見させられて、クラス1のバカが「のうみそ!のうみそ!」と叫んだりし、体育教師に首が180度回転するくらい殴られていました。

高校の時はものすごく話の上手な警察官が来て、「私の検分した最も悲惨な事故」というテーマで、恐ろしいほどリアルにその時のことを話した結果、女子学生数名がその場でリバースし、複数の学生が保健室に運ばれるという大変な事態になりました。

警察官ってなんかものすごいですね。
母方の祖父も愛知県警のえらいさんでしたが、その筋の人々から強奪した超高級麻雀牌で日夜賭け麻雀に興じておりました。

愛知でも「腹話術の警察官」の学校指導があったというメッセージをいただきました。
メッセージ主はわたくしと同世代でしょうから、もう昭和50年代から腹話術警察官はいたということになりますね。

検索すれば一発で情報が出てくるんでしょうけど、ここはあえて詳細を調べずにおいておきます。

そもそも腹話術って由来はどこなんですかねえ。
いっこく堂がでてくるまで大分忘れ去られてた技術な気がしますが、大道芸としてはしっかり生き残っていたんでしょう。

わたくしと仲良くしてくれる人は30代の卒業生・人が多いんで、なんとかわたくしと同じく、どうにもならん30代に希望を与えたいんですけどねえ。

結局頭の中にあった「こういう自分」がもう無理なんだとはっきり悟るのが30代でしょう。
暇が一切ないくらい詰め込みに詰め込んで、ひたすらやり続けることくらいしか気分が上向きになることってないからなあ。仕事でも趣味でもさ。

今この国で最も幸福度の高い人というのは、ホワイトカラーでもIT社長でもなく、「道を踏み外さなかった地方のヤンキー」でしょうね。

世界を広げることなく、意味のないモラトリアムで20代をつぶし、結局何の実績もなく何もできないまま30代に突入して、高学歴でワーキングプア→心の病みたいな、まあわたくしに近い生き方を選択した人よりも、

さっさと社会に出て「いい車乗ってることと家建てることと家族を増やすこと」だけが幸せの基準で、他に何の関心もないという明快な人が一番幸福だろうと思います。

薬物や売春他、犯罪で道を踏み外していった人にはそれなりの報いがありますが、多様な価値観をもたずにものすごい狭い範囲で生きてる人のがずっと元気で、考え方はしっかりしているように見える。

これはわたくしのコンプレックスがそう思わせてるだけかもしれない。
が、そう外れてもいないと思う。

堂々と「俺の若い頃はな」とか言える方が、「これを言うとコンプラが…」とか考え込んでる人間よりそりゃあ幸せでしょう。

かつての日本もそうでしたが、一旦金持ちになった国はもれなく失速し、教育方面から徐々に腐っていきます。

わたくしは元々海外の文化に対する憧れが強いこともあり、また実際に観光旅行ではなくバックパック貧乏旅行がブームだった世代でもありますので、外国人に対しては平均的な日本人よりも友好度は高いでしょう。

であれども、今の誰でも受け入れる留学制度にはこりゃだめだ、と思うことが多いです。そして金持ちの国は勉強することが目的でなく、「日本の学校に行った」という経歴が欲しいだけなのです。それがありありと透けて見えるんで、留学生本人も何もしないし、ただいるだけです。

「日本人は海外に留学しても日本人とだけ一緒にいて無意味。」
わたくしたちが学生の頃に問題になったことが各国で起こっていると言えます。

ここ数年の学生の傾向として、まあ以前からそうではあったのですが、

・グループワークを異常に嫌う
・留学生とコミュニケーションをとらない
・男女は以前より仲良しだが「誰とでも仲良くする」というタイプがほとんどいない

があります。

この3点だけでも「自分と違うもの・気に入らないものに対する許容値の低さ」が如実に感じられます。

コミュ障の感じは全然しません。大体そんなやつは高い金を払って専門学校なんか来ずに引きこもってニートです。

しかし最初に自然な輪に入れなかった子は「自分で入れてもらう努力をする」ということができないので、そのまんまです。
役に立つ人間を中心に輪ができて、役に立たない人間は表向きは所属していますが、内部的に村八分です。
これはまあ、いつの時代でもそうですね。

20歳でこの状態です。
留学生(主に中国)のレベルが落ちすぎて、日本語でコミュニケーションをとれないこと、強制的なインバウンドの影響で外国人(とりわけ中国)に対して嫌なイメージのある子が増えて、話してもないのに話したくないという子までいます。徹底して無視です。

大人社会の縮図です。

もう数日で50歳の1年も終わりです。
40代はつらいけど50代に入ると楽になるよ、という恩師の言葉はただの慰めで、むしろ途方に暮れ続ける一年でした。

「小学校の交通安全指導で、腹話術のできる警官が来た」ってすごい興味ある話ですねえ。初めて聞きました。

「腹話術のできる警官」がまずパワーワードです。
各小学校で指導するのが前提で、異動した時点で腹話術習いに行かされりするのかな。

たまたま「わたくし、腹話術できますので指導に使用したいであります」とか立候補するんだろうか。

もし他の地域でも「腹話術で安全指導」が存在したなら、たまたま腹話術できる人がいたってだけの話じゃないかもしれないですね。

腹話術できる警官が人形持って交通安全指導にきた、という経験をお持ちの方はぜひ「読みました」ボタンからお教えください。

中学校の思い出が全然ないんですよ。
昭和から平成に切り替わった時なんでなんかあってもよさそうなもんですが。関係ないか。

初恋って小学校でした?中学校でした?わたくしは17歳でした。これは断言できます。

休みの日とかもほぼバスケ部の練習で、それで3年間終わった感じがします。じゃあ部活のことを書いてもいいんですが、あんまり楽しい思い出はないですね。

ああ、わたくしバスケ全然好きじゃねえわってことに3年間やってやっと気がついたというくらいです。
スラムダンクが連載される直前の話です。

スラムダンクをリアルタイムで読んでれば、また違ったかもしれない。

2025/07/21

一日の間でも、暇にまかせて自分の気持ちをつど確かめていると、相当な勢いで乱高下しているのがわかる。

今は「こうと決めたキャラを徹底していく」という戦略ばっかりで人間性に欠けると思っているのがわたくしの正直な感想です。

なので不愉快なことも言いたいし、愉快な時間帯もある、ということを年単位・月単位ではなく、時間単位に細分化して書き続ける。

というのが今ここでやってみてることです。

そう考えると「子どもの頃=思春期に子どもでいることを許されなかった」というのはかなり重たい傷だとわたくしは捉えています。

わたくしが親のかわりに同情、あるいは共感してかまってあげてればいつかは元気になるんじゃないか。

これが20歳の頃わたくしの中にあった正義であり、それが大きな考え違いであったと認識するのがその後の歴史です。

だからそう、なんかこのひと変だなというのはやっぱり距離感の話に集約されるんですよね。

でもコニュニケーションとは、と考え始めると、また自分自身のあり方の問題にフィードバックして堂々巡りするわけです。

その堂々巡りを趣味としてやってるならいいんですけど。
本気だと他人の目からは「逃げている」と写ってしまうわけで。

わたくしもちょっと人のことを気にかけすぎるきらいがあって、かまってちゃんに構いすぎて共依存になる、というようなケースも経験があるんで自衛はしていますよ。うん。

わたくしの一つの基準として、こんな会話
「オタクをバカにするな!」
「わたくしはオタクじゃなくてお前のことが嫌いだと言っている。今後もつきあって欲しいなら治せ。」
「オタクをバカにするな!」

上のオタクは弱者でもメンヘラでも専業主婦でもニートでもなんでもいいわけですが。

こういうループが発生した時点で自分の人生から相手を切断することにしているので、上の会話の何がズレてるのかわからないのであれば、それは残念ながらこ゚縁がありませんで、ってことだと思います。

時々は人を見下して自信を取り戻すのもいいんじゃないかなーと思うんですけどね。わたくしも「なんだこいつ終わってんな」って思うことありますよ。

ただどうして見下したい気持ちなのかを考えてると、まあ自己憐憫ですよ。俺こんなに一生懸命やってんのに!なんでだ!なんで俺だけ!社会が悪い!みたいなね。

なんでずっとやってても自尊心が傷つくだけな気がしますねえ。
そんなんで取り戻せる自信って偽物だしな。

友達なんていてもいなくても人間の価値には影響しないと思いますけど、どうしても友達がほしいんであれば、とりあえず鏡を見て自分って人から見て友達になりたい人間かしらと考えるところからやってみては。

それが怖すぎて出来ないっていうことなら、そりゃあ誰も友達にはなりたくないだろうなあとは思います。

なんせわたくしは義父が亡くなった時に、家内ちゃんから「自宅から真珠のネックレスもってきて」と言われて、象牙の数珠を間違って持ってった夫ですからな…。

数珠とネックレスも怪しい。

家内ちゃんも最初の数年は教育しようと努力していたが、わたくしが一つも覚えないので諦めて、夫の服も家内ちゃんが全部選んで買うようになりました。

スカートの丈が長いのがダサいのかな。
リボンとかタイがないから?

あー家内ちゃんはシルエットがどうこう言ってましたな、そういえば。
さっぱりです。

ミニスカートってどれくらいの丈の長さを言うんですかね。
膝より上?膝より短いと風俗っぽくないですか。冬目景もそんなこと言ってたし。

あれ、でも80年代のスケバンってスカート長くなかったっけ。スケバン刑事?長いとヤンキーなのか?

女性が室内で傘を持っている。

女子が言う制服がかわいい・かわいくないって全くわかんなかったんだよなー。どういうのがかわいいんですかね。

うちの高校は今はとっくに別のデザインになっていますが、当時はわたくしが描いてるとおりの感じですけど、「ダサいから制服自由化しろ」みたいな運動が起きるほどだったんですよね。

でも何がどうダサいのかわたくしには全然でした。

鈴鹿市は交通事故死者数がワーストなんとかでー、みたいな談話授業を覚えています。相当力を入れてたんで、小学校の中にも作ったのかもしれません。

わたくしの小学校はマンモス校で、先進的授業のモデル校に指定されていましたから、なんか色んなことやってましたよ。

生徒会選挙の政見放送も生徒だけで放送し、各教室のテレビで見るみたいな本格的な内容でしたし。

1クラス50人で1学年6クラスありましたから、300*6年で1800人か。
小学校で1800人だと相当大きな規模だったんじゃないですかね、市立小学校としては。
途中で収容できなくなって分校しましたから。

子どもの数が多かったんですねえ。子どもで溢れていました。

さきほど「あれって何て名前だったのか。」という漫画を描きましたが、交通公園ですという回答を複数いただきました。ありがとうございます。

「交通公園」という単語を聞いてもピンと来ないということは、交通公園というものにそれ以降触れなかったってことですね。また、学校内にあるところは珍しいっぽいです。

Twitterで教えていただいた記事の中に「1970年代には交通事情が悪化し」とありました。なるほど、そう聞くとやたら警察が来て自転車の乗り方やら何やら指導する日があった気がします。

高度経済成長がもたらした負の結果だったのか。

わたくしは好奇心でそういう世界を覗きたいというよりも、全然知らないと生徒の地雷を土足で踏むんで(そりゃそうです)、多少は知っておかないと、みたいな感じなんです。言い訳みたいですけど。

でもアニメやマンガ、ゲームなんかはほぼ100%生徒の影響で始めたわけですし、そんなに堅苦しく考えてるわけじゃないんだけどな。

初めてメイドカフェ(キュアメイドカフェは萌え萌え~とかやるところではなく、ただいやに丁寧な接客のメイドが丁寧にお茶とお菓子をもってきてくれるというだけのカフェなんですが)に行った時も、そりゃあ緊張しましたねえ。

バッドマナーをやらかして殺されるんじゃないかとかびくびくしてました。そう思ってること自体がオタクに対する偏見なんだと思います。

そう考えるとあれだ、ラーメンの二郎もそうですね。
わたくし二郎とも知らずに何回か行ったことありますけど、普通のラーメン屋だったけどなあ。

そう…折り紙もここでアップしてくくらいならいいか。
SNSでは折り紙にも著作権とか作者の提唱するローカルルールとか色々あってそれを遵守してまでアップしようとも思わないな。

女の人がオタク(同人?)分野では成人済み!とか検索避け!とか男性からすると異常に見えるほど自分のふるまいに注意するのは、そうしないとものすごい勢いで仲間内で叩かれて村八分にされるからですってね。

「戦争が始まるんだ…」とか女の子が言ってました。
そういうノリ自体も若干気持ち悪いなとは思いますね。攻撃しようとは思わないけど。

なんでそんなに攻撃的なのか。

ちょっとまえ、「手でカエルを作る」というマンガを描きました。

「両親に教えてもらった」とか「オスメスがあるらしい」なんて噂話とか、色々あって面白い。

カエルの口の部分を人差し指だけで作るか、人差し指と中指の2本で作るかで顔は変わりますよね。これもなぜだか知っていて、勝手に手がそういう形になる。この顔の違いをオス・メスと言ってたのかもしれない。

でもこれって影絵とは違いますでしょ。壁に手の影を映してキツネとかイヌとか作るやつ。

この手で作るカエルってジャンルでいうと何なんでしょうねえ。
またカエル以外を一切聞いたことないです。
似たような指の組み方でイヌとかネコとかあるんですかねえ。

あったら面白いですね。

時々数年分の友達とのLINEを読み返す、って感覚は多分わたくしが時々手紙をひっぱりだして読み返すのと同じですよね。
それはわかるなあ。

わたくしはLINEでは「はい」「了解しました」しか言わないんで、見返しても無意味なんですが、LINEで深いやりとりをしてるんですねえきっと。

それはいいですねえ。

あーわたくしが言ってる「人を見る」っていうのは数字をウォッチすることとは真逆で、だって突然「フォロアー数急に増えましたね」とか知らない人に話しかけられたりしたら「うわ、気持ち悪」って思うでしょ。

自分のフォロアー数やいいね数を気にしておかしくなっちゃうのはわかるとしても、「推しだから」という謎理由で、人のデータを逐一チェックしてるなんて、相手に気づかれたら即終了って感覚になぜならないのか不思議です。

推しへの愛=公開されてるデータを余すところなくチェック
みたいなところが現実の恋愛となんか違うなあと思ったりします。

そんなモヤモヤを抱えている横で、家内ちゃんがずうっとヤクルトは人間の飲むものではないがローリーエースは素敵な飲み物である、という常人には理解できない主張を繰り広げており、ローリーエースなんて飲み物がどこで売ってるのかわたくしにはわからないが、結論として「いる。」ということになるだろう。

「精神的に病気を抱えているのでつい自分の感情をとめられず悪口を書いてしまいました。自分も社会の被害者です。ごめんなさい」
大体言い訳はこうなります。テンプレです。

精神的な病の有無と、自分の言葉に責任を取ることは全く別の話ですからそれは言い訳にならないんですが、あからさまに同情を狙うと逆効果ということも理解できてない。

最初から書かなきゃいいのに、と思います。

わたくしを「京都の恥」と書いたポストをみかけたことがあって、これに開示請求は通るだろう。島田紳助と同列に書いてあったのが謎だったけど。

ただ住所氏名を特定したところで、その結末はいずれも虚しい。結構な確率で全く知らない人物じゃなくて知ってる人だったりするし。

今は訴訟ウォッチャーみたいな謎のジャンルもあって、どういう言葉でどういう悪口を書くと裁判ではアウトみたいなことを逐一報告してる界隈もある。おかげで詳しくはなった。

訴訟に踏み切ったところで、多くが生活保護や障害者手帳を盾にして、往生際悪く罪から逃れようとする。これをやるからどんどん弱い立場の人々の印象が悪くなる。むしろそれを断罪する法が欲しい。

2025/07/20

世界を醜悪だと思うなら、自分だけでも美しいものだけを志向したいとわたくしは思いますけどね。

世界に合わせて自分まで醜悪である必要はない。

クソどうでもいいでしょう?

後から思い出す楽しかったことってね、
クソどうでもいいことだけなんですよ。

そっか、水鉄砲で鬼ごっこやったから濡れてもいい格好してるんだな。女子のブラウスは透けるから。思い出した。

最後に近所の夏祭り行った日だ。
そうそう、ようやくマキタと2人で写真撮れそうなところにムロイが間に突っ込んできたんで、なんだおめー邪魔すんな空気読めと内心思っていた。
という写真です。

真ん中のムロイが背後霊みたいな写り方しててやだなこの写真。
Photoshopで消したろかと思いました今。

マキタとオータニは写真撮る係だったんで、写ってる写真があんまりないんだ。そうだそうだ。ここで「二人で写真写ってくれ」って言えなかったから卒業式まで持ち越したんだった。

ありがとうございます。
「美術部ってどこも同じ感じですね」というメッセージに触発されて芋づる式に思い出しました。

祭りの夜、提灯と楽しむ人々。

画面から伝わるかどうかわかりませんが、わたくしたちは文化部にありがちなじめっと大人しい感じはなくて、誰が一番暗いやつかと言えば部長のわたくしじゃないかしら。

自己主張は激しいんで好かれてはいませんでしたけど。

美術部は運動部で肩や膝を痛めてしまって活動できなくなった子の受け皿にもなっていたので、ノリはどちらかといえば体育会系でもあった気がします。

わたくし(左奥)と直列くん(中央後ろ)と加藤(手を顎で組んでいる)及び美術部・演劇部。
ああちょうど33年前の日付けだ。

男子は制服で女子は私服だなあ。なんだっけこの日。
男はめんどくせえから制服でいいやってなって、女子はやだあってなって私服だったんかな。

美術室は広いんで時々みんなでなんか作って食うみたいなのやった気がします。

しかし油絵の具の臭いで充満してたと思うんだけどみんな平気だったんかな。

学生たちが食事を囲んでいる。

投票所はそんなに遠くないんですが、まあ日差しを遮るものがないので溶けて下水に流れていきそうでした。

わたくしはちょっともうまっすぐ立ってられないので、なんかこう、一人パロ・スペシャルみたいな態勢で投票用紙に記入します。

ぽてっと倒れたら自力で立ち上がれるか不安なので家内ちゃんにも投票についてきて欲しいんですが、日に当たるところには絶対出ないので叶いません。

まただらだら一覧ページはリピーターにはいいんですが、新規で見た何もわからない人には「このひと何がしたい人?」って見えちゃうでしょ。内容が雑多すぎて。

なんでもそうですが両立するのは難しいんですよね。
無理に両立するともっとよくわかんなくなるんで。
今そういう感じです。

以前のようなだらだら一覧ページしかないと、個別のページに対するデータがとれないんですよ。だから「アクセスが多い漫画を関連マンガとして表示」とか、そういったことができないわけです。

なのでどうしてもサムネイル→個別ページに飛ぶというシステムに変えたかったというのはあります。

わたくしのように毎日のように描いてアップする、コンテンツが多いサイトの場合はだらだら読める方が便利というのはありますけどね。

「オタクは気持ち悪い」では主語がでかすぎるので詳しく言うと、

個人VTuber犬山たまきやかなえ先生らが1エンタメコンテンツとして提供している「オタクからのマシュマロ悩み相談」があります。
わたくしはここ1週間ほど絶えず流れてくるこの切り抜きを見続けました。本編ではなく切り抜きです。

オタクとはなんだろうといつも気になっているので。

その配信に採用されてぶった切られている男女オタクの言動や行動は、もれなく気持ち悪いです。

だって特別気持ち悪いのを選別してそれを読んでるんだから。
こんな人たちばっかりだったらネットは滅んだ方がいいレベルです。
岡田斗司夫の悩み相談を中高大学生くらいを対象にした感じですね。
岡田斗司夫を下敷きにしているのかもしれません。

しかしこのコンテンツが成立しているのは、犬山たまき本人もオタクであり気持ち悪いというキャラクターを担保にして、「先輩オタクとしてこういうのはやめよう」という啓蒙的な姿勢をとってるからで、それがないとただの悪口です。人気は出ないでしょうね。
そのへんも岡田斗司夫と似ています。

わたくしはそればかり集中して見たので、一週間でギブアップです。
こうやって長文で説明しないと誤解を生むでしょう。
だから長文で送ってもらう分にはわたくしは気になりません。

ただしポエム形式…つまりモノローグになっているとわたくしにはさっっぱり理解できないので「気持ち悪い」という感想になります。

わたくしもたまにクソメガネみたいな、こんな嫌なやついたー(30年前だけど)マンガを描きますけど、基本的には誰かを傷つけるようなものではなく、退屈でも「つらかったけど僕は幸せだった」という内容を描いています。

ただし、「誰か」=よく知らない人をとりあげて傷つけ、それで仲間を増やすようなことはしませんが、「僕が傷ついた経験」は非常に重要なので、傷ついたことさえも幸せだったという前提で描いています。

伝わりますかね。
「僕が傷ついた漫画」にあなたが共感して一緒に傷ついて不快な気分になるのは、わたくしが意図した通りのものだ、ということです。

先生の大きな仕事って、基本はある程度生徒を追い詰めることです。
そして追い詰めすぎないことでもあります。

その2つをまとめると、「見ていること」となります。
さじ加減を間違うとただの意地悪になってしまう。

そんな面倒なこと考えずに、毎日エヘヘ、スマホで着替えを盗撮してSNSに投稿しよーとか考えてる方がもしかして正しいんじゃないかとか、とち狂ったことを考えてしまうこともあります。

絵は自由でいい。
一人で深呼吸できる。

また説教みたいになってきました。やめやめ。

人生的な質問に対しては頭が先生モードの思考になっちゃうんでよくない。
家内ちゃんに答えさせた方が多分いい。

「どうしたらいいんでしょうか」
「知らないである。」

終わり。

運動はほんと嫌いでねえ。
運動自体が嫌いというより、あの全体主義みたいな「目標に向かって成長!」みたいなキラキラ感がイヤだったんだと思う。

わたくしもバスケとか水泳とか柔道とか、高校まではなにがしか続けてたわけですけど、「一人で黙々と3Pシュート練習」「一人で黙々と平泳ぎの足の角度の研究」「鏡に向かって袖釣込腰の一番美しい形を模索」とかは全然苦じゃなかったですし。

ただそうすると全然出来るようにはならないんですよね。
下手の横好きなままです。人の話聞かないから。

そう考えると運動部でも文化部でも一緒ですけどね。
人の話を聞けない限り、何も生まれては来ないので。

創作活動って聞こえはいいけど、その外側にいる全然関係ない人から見れば当然「なにそれ遊んでんの?」ってなるわけで、リスペクトとかそういう狭い内輪の概念を理解して欲しいと思う方がどうかしてるとわたくしは思いますけども。

例えば親なり友達なりに「遊んでる」「甘えてる」と言われたら反発しますが、言葉で反発することに全く意味はないわけです。遊んでるわけじゃないってことはただ描いて証明するしかないわけで。

何か言われて心が折れるってことは多分、好きで描いてるというより「誰かに自分がゴミでないと認めて欲しいからやってるだけ」と受け取られても言い返せなくないですか。

その動機が悪いわけじゃないけど、まああんまり格好良くはないよね。
自分の行動を創作や芸術だと美化・正当化するのであれば。

わたくしは絵や漫画の制作にはポーズ集も素材も生成AIも使用してませんが、証明しろって言われると困る。ラフはレイヤーとして残ってるからすべて見せられますが、途中経過なんか見せたくないです。

そういう意味ではお絵描き配信みたいなものを保険としてやっておくのも必要かもしれません。

が、それはそれで食ってるプロが考えることだろう。わたくしなんぞが悩む話ではない。

AI使って描いてるならもっと上手く描くよきっと。

ネットに価値がなくなるのが一番いい。
みんながこんなもん価値ねえよって思ってる場所が一番居心地がいい。
価値が生まれると価値のとりあいで無粋な大人が湧いてくるからな。



浪人から大学1年にかけてよく聴いたさねよしいさ子。

「この世の裏側 知ったとて
滅びの証明 されたとて
それでも 僕らは 生きたいよ
水を吸い上げて 生きぬくよ」

わたくしがこうして素を出して素のまま言葉を語ってると、今まで「作者がよくわかんないから上手に取れていた距離感」がおかしくなって、人は離れていくんですよね。わかっています。

わかってて、どこかでわたくしは無意識になにかを演じようとしている自分もまた否定しないといけないわけですよ。妄想じゃない世界で生きていこうと思えば。

今何が流行ってるの、ってほとんど話題にしなくなったな。
今自分はこれを見てる、これをしてるって報告だけになった気がする。
流行ってることに価値を置かなくなったのはいいんじゃないですか。

森見登美彦原作の、四畳半神話大系とか有頂天家族はほんと面白かったですねえ。見慣れた京都の景色が頻出しますしね。

2010年前後のアニメってやっぱりけいおんが一番大きいですねえ。
わたくしがよく見てたのは物語シリーズとかストライクウィッチーズとか生徒会役員共とか。ミルキィホームズとか超電磁砲とか。バカテスとかみつどもえとか。いくらでも出てきますな。

特に2011年に大震災が起きてからは一切の仕事がなくなってアニメ見るくらいしかすることなくって。

美術室と美術準備室。

学生と彫刻の背景の写真

2025/07/19

そもそもわたくしは格好よくないので、格好をつけるくらいでちょうどよいのだ、と学生の頃は思っていました。

なのでだいぶ無理をして女の子の前では格好をつけていたと思います。
ひねくれてるけど一生懸命なところだけは認める、そんな風に村木にも奥崎にも言われた気がします。

傷つきやすい人間だと思われるといろいろ気を遣われてしまうので、そんなもん知るか!ばかやろう!みたいな感じでいたんですが、わかる子には一瞬でバレてしまいましたね。

男は基本的にあまり人をよく見てないので、わたくしはズバズバと正解を言い当てる女の子にいつもくっついてました。

わたくしは見たものにすごい速さで影響を受けるので、「頑なに見ない」くらいでちょうどよいのです。

絶対見ない!と決めていたイラスト講座も最近の情緒不安定からつい見てしまい、「二次創作はまず顔をそっくりに描かねばだめだ」という影響を受けてしまいました。

なんかこう、一本芯が通った意見というか、これだけは譲れんみたいなものが実はないのです。

大体なんにしても「まあいいんじゃないの」と、そういう感じです。

ネットに触れないようにしてしばらく経つと、楽しかった、楽しめた空気が抜け落ちて、一体何がそんなに面白いのかわからん、という浦島太郎になります。多分誰でもなると思う。

漫才師や芸人が「場があったまってる」というような表現を使いますが、面白がってやろうという気分がないと何見ても「?」ってなるだけでしょう。

大学でつまづいたポイントはいくつもあったんだけど、先輩がやめちゃうなら俺は決してやめないって日記に書いてるので、4年プラス、余計な2年の留年はそこでつまづいたんだろうと思います。

幸せで満ち足りているなら絵なんか描く必要性を感じない。
でもこれ、先輩がそう言って絵を描かなくなった時、すごく裏切られた気持ちになってね。勝手な話なんですが。

先輩から「今、幸せ」って聞きたくなかったんだと思う。
先輩が本当にそう思っているかどうか、当時のわたくしにはわかりませんでしたけど。

自分で正論ばかりの動画を大量に見ておいて、影響受けてこんな偉そうなことばかり言うようになるなら見るんじゃなかったと後悔する、一旦後悔し始めると範囲は広がり続け、あんなこと書いた、こんなこと描いた、どうでもいいことを言った、普段なら言わないのに、などと際限がなくなる。

そしてもうやめよう、人を傷つけてまで言うべきことはない、と憂鬱になってゆき、数日経つと忘れていく。
それを繰り返すばかりで一向に治らない。

性格は変えられない。自分を見て言っています。

なにか自分で作ったりやったりする時に一番邪魔になるのは羞恥心です。自分を見せるのが恥ずかしいってやつです。
それが普通です。

学生に「推しへの愛をデザインで語れ」という課題を出しても、それが出来る子は非常に少なく、大抵バカにされない、周囲から浮かない程度に抑えたものを作ってきます。

そこが初心者の壁だと思いますよ。
自己愛よりも誰かへの愛が上回らないとできないんで、好きなことを公言して実行してるだけでも初心者の壁は乗り越えてると思います。

とは言え振り返ると無気力だったことはあまりないので、「どうせやっても無駄だしな」みたいなネガティブにはならない方ですね。

プライドなんて普段役に立つどころか邪魔なだけなんですが、どん底な気分の時だけは助けになります。

無気力とは自分の感情さえめんどうで最初から全部諦めることですが、一つづつ感情が消えていく中で、「なんだこのやろう」と再び感情が復活するきっかけはいつもそのプライドの高さにあったと思っています。

わたくしはたいてい悲観的なので、景気がいい時はほっといてもらえるんですが、景気がどん底で余裕がないと「お前がいると空気が悪くなる」という同調圧力がかかります。

嘘でも「大丈夫だ!がんばろう!」ってやらなきゃいけないわけです。
でも嘘なんですよね。

そういう嘘で周囲が元気になるなら頑張りますが、やっぱり嘘なんですぐ見抜かれます。
無理しなきゃよかったなと後で大体思います。

他人事のように書いてますけど、わたくしはいつもわたくし自身もそうだなあという気分の下で生きております。
つぶさに自分を振り返ると、ワンチャンなんて一回もなかったという身も蓋もない結論にしか到達しないのです。

専門学校というのは全員18歳とかじゃなくて、30代40代も普通にいます。わたくしがいつも年齢を気にするのは、実際に人の話を聞かなくなっていく実例を毎年見てるからですよ。ネットのネタじゃなくてさ。

こう書くとわたくしがマウントをとっているように感じるかもしれませんが、わたくしも気持ちだけはわからんでもないんですよ。
でもどうにもならんのです。ああ言えばこう言うという態度で長年自我を守ってきた人間に、自分を変えろと言ってももう無理なんですよ。

30代で自我が崩壊するような出来事を経験するのがその人にとって本当にいいことなのかどうか、わたくしには判断できません。悩みます。

自分の妄想を投影した時点で相手にとっては迷惑でしかない、なんてことはマキタと先輩でさんざん描いてる気がするんですけど、伝わっているのかいないのか。

男子学生にも時々いるんですけど、目があったり挨拶しただけで好きになっちゃうやつね。「インスタの投稿にいいね押してくれた」ってだけで本気で好きになっちゃうの実際にいましたからねえ。

あれは恋愛じゃないとわたくしは思いますよ。自己愛に近いんで。
そういう性格って一瞬でクラス内に広まるんで完全に村八分になっちゃって、最後は色んな先生に懐こうとして先生たちからも弾かれ、わたくしのとこにやってくる、と。わたくしは断罪はしますが放りだしたりはしないんで。

あれが寂しがり屋という性格の頂点だったとわたくしは認識しています。俺みたいなおっさんに懐いとる場合か!と言ったんですけどね。

彼女ほしいけどどうしたらいいかわからん、みたいな話って大学の頃いっぱい聞きましたけど、誰でもええから一回つきあったらええやんけって言ってましたねえ。

今と違って恋人がいないのは恥ずかしいという空気でしたから、男だけじゃなくて女の子もそこまでガード高くなかったので。そんな好きじゃないけど、まあつきあってやってもいい、なんて子はたくさんいましたよ。

結局彼女ができないって言ってるやつのほとんどが、なんか妙に「こんな出会い方をしてこんな風に仲良くなってこんな告白して」みたいな漫画みたいなこと考えてるやつでしてね。

ちょっとだったらいいんだけど、ちょっとでも違うとイヤとか言うからさあ。基本がまず失礼なわけで。

そうなんだよなー。
わたくしにかつて寄せられた大変不愉快なメッセージは送り主が男か女かわからないんだけど、年齢についてバカにする記述があると、これ送ってるの女の人じゃない?ってまず思うんですよ。

男っておじさんとかおっさんとか4、50代とかってあんまり悪口にならないよね。「いい歳して」って言われるといい気はしないけど、そんなにキーっとはならないと思う。

でも女の人は年齢にものすごい反応するじゃないですか。特にわたくしと同世代になってくると。
だから年齢でバカにするのが相手にダメージになる、言われたらイヤってことは女の人か、女の人の悪口(母親とかね)から学習したお子様かなあとは考えます。

マンガや絵も同じで、ふと思ったらすぐ描かないとすぐ忘れる。
ああ何と何を比べて同じことだと思ったんだろう。

なんか重要だった気がする。
マンガも描こうと思って忘れたものほど、面白かったような気がする。
錯覚なんだけれど。

今、「これとこれ、同じことだな」と思ったんだがふっと隣のモニタに視線を移して戻した0.5秒の間に忘却し、思い出せない。

何と何が似てると思ったんだろう。
ひどく気持ち悪い。

2025/07/18

今まで何年も、率先して情弱になろうと情報をシャットアウトしてたんで気づきませんでしたが、ある程度まとまった暇があり、気力も減退している今、流れてくるままに情報を得ていくと、なんか考えてることが変になってる自分に気が付きます。

多分こうやって「ネットのおかしなおじさん」が製造されるんだよ。
すごく腑に落ちた気がします。

反論できない正論で塗りつぶされた情報はこわいな。
こわいよ。

わたくしがそんな個人的な話を聞いてそれを晒してみんなで嗤うような人間でないことを証明するには、まず自分自身が「このひとはそのような行動をとらない」という信用を獲得する必要があるわけでね。

それはもうただ長いこと毎日続ける以外には無理なんだと思う。

おかしな行動、厄介な行動の人間を晒し上げて嗤いものにするマシュマロ配信を連続で見てると、実際に自分を棚に上げて人を断罪する悪意ばかりが膨れ上がりました。

前も書きましたがわたくしは実存主義傾向の強い考え方ですから、そんなとうに廃れてしまった哲学に同調して好きになって欲しいとは思っていないです。

一般論や意見(=リアクション)じゃなくて、あなたが何を覚えていて、何が嫌だったか、誰を好きだったか、そんな極私的な話を聞きたかったんですよ。
つまりあなたの自我を。
こっそりと。内緒話のように。

練習しないとできませんから。内緒話も。

どんどん人間が人間に見えなくなっていく世界がただ不安で。

自分で考えて自分でやったこと以外、ほんとに何も記憶に残ってないもんなあ。文化祭とか体育祭とか修学旅行って、集団で何かをするとすぐ「じゃあ僕はいいや」と思って逃げてしまうわたくしには、全然いい思い出がない。

わたくしにとっては「色々やった結果マキタに嫌がられました」の方がはるかに重要な記憶になっています。

こうした動画にまとめられていることを100%鵜呑みにするわけにはいかないとしても、わたくしはずんだもんに共感するし納得いきます。若者だけの話とは思えない。

特に「趣味も自己表現も第三者の審査員付きコンテスト」はそうだなあと思います。個人サイト作って言いたいようしたいように、自分の思い通りにするってわたくしの考え方は、成功者からは負け犬の遠吠えにも見えるかなと思いますけど、わたくし自身は楽しくって仕方ないですよ。自分語り。

この動画の中でも言われてますが、「短期的にはいいが長期的に生きる気力を奪う」、これなんですよね。ずるずる行くと後戻りできない。
20代のわたくしがまさにそうです。
ちゃんとやっとけばよかったって、今も思います。

「なにか(ニュースや動画)を見る」→「思ったことをそのまま書く。」
というリアクションを(故意だとしても)続けてるとここ数日のわたくしのように、急角度で言うことが怪しく(普段よりもより攻撃的に)なってくる。

毒があるコンテンツ≒人間には簡単に頭を支配される。
考えて整理する前に正論が流れてくるからだ。ラジオみたいに話半分で聞いててもいつの間にか考えてることが偏ってくる。

むしろそうやっていろんな情報を見ても何も言わず何も思わずにいられる方がよほど大人な対応に見える。だから学生たちに学ばなければならないと言った。

触れていない世界に触れるのは簡単だが、今みたいにそれを摂取する時間があると永久に自分の中に積み上がって感情を上書きしてしまう。

だめだ。オタクとVTuberの世界について語られた動画を見すぎてわたくしまでおかしくなってきた。
こりゃ偏った思考になるよ。誰でもなるわ。ずっと見てたら。

変に絡まれたりとか、妙に粘着されたとか、そういう話ばっかり聞いてると、こりゃ自分はそうなったらあかんわって気分になりますから、抑止力としてはいいかもしれません。

これでわたくしも影では女子高生に声かけてパパ活とかやってたらえらいこっちゃですよ。そんな人生棒に振るような真似するかいってことで、興信所でもなんでも調べてもらって結構です。

自分はクリエイターだ!自分は人を楽しませるためにすべてを捧げてるんだ!

ってガワをかぶっててもそう言われてしまうと、うわあって思っちゃいますよね。わたくしの言ってることも同じようなことかもしれませんが。

駆け込み寺みたいなことをやってた時も、「かわいそうな人に寄り添って傷ついた心を慰めてあげる」って感じではなかったですよ。
結果的に慰められた人もいましたけど、わたくしは何もしてません。
それはもう福祉と医療のしごとです。

好きにしろよってことです。
大学生活のように。

基本みんな自分語りはしたいんですよ。
それを嗤うのは同族嫌悪と嫉妬だと思っています。

ただ、今は人の目が見えるところでいわゆるヤフコメ的な自分語りをやってると荒れちゃうじゃないですか。荒れたら嫌な気持ちにしかならないし、無駄な時間を過ごすだけで。

だから自分の話をしたければ「読みました」から存分にやってくださいましと言っている。
わたくしはわたくしの自分語りに誘発されて、自分を語りたくなることは素晴らしいことだと思いますがね。
それだけ自分について一生懸命ということなんで。

真面目すぎてうまくいかない人の味方ではあると思います。
まあ何かやろうとして本当にうまくいってる人なんてほとんどいやしませんって。

友達なんて別にいてもいなくてもぱっと見ただけではわかんないですから、どうでもいいけどね。自分で友達いないなんて言わなくても。
いないからそれがどうしたんです?とは思います。

女の子の漫画ばっかり描いてるからといって、女性だけ優遇するかというとそうでもないし。ただまあ、男性は女性には気を遣って自分を下げてるくらいの方がうまいこと話が進むことが多いんで、それすら出来ずに「だから女は!」みたいなのを平気で言っちゃうようなレベルだと話にならないです。

「だから男は!」も同じですね。そうやって極端なこと言ってるとフォロアーは増えますが孤立するでしょ。自分と同じような人間ばっか集めても何も起きないです。だって心の中ではバカにしてるんだもん。でしょ。

少なくともわたくしはそう考えているので、そうじゃないことを態度または言動で証明すればすぐお友達ですよ。わたくしは尊敬して欲しいわけではありません。

言葉遣いの問題でもなくてね。そういう細かい話ではないの。
まあわたくしは「草」を書いてきた時点で無視しますが。

あと自分のキャラ付けとか、他人が勝手に自分をキャラ付けすることにすっかり飽きたということもあります。

それはそうとしても、わたくしの大きな目的や希望は、あなた方と距離を詰めることであり(あなた方が例え自分をどんなにクズだと思っていたとしても)、関係するということにあります。

しかしSNS的な距離の詰め方は刹那的で、無意味です。
何年やってても、定期的に会うような関係の人間関係を構築するのは相当難しいですから、ネット上の関係を「人間関係」とはわたくしは認識していません。

まあね、そんなおきもちを無理強いはできないので、わたくしはわたくし独自の線引きによって関係を構築していきます。

わたくしはよくメンヘラでもコミュ障でも陰キャでもオタクでも、パリピでも陽キャでもなんでもかまわん、って言いますよね。
そんなことで差別していては授業なんかやってられないからです。

もう少し詰めていうと、どんなに狂っていても分け隔てなく優しく接する…ことはわたくしの器では多分無理なので、「メンヘラだからと言って特別扱いはしない」というのが近い気がします。

傷ついた時は誰でもいいから優しくして欲しいものですが、SNSみたいな上っ面なら出来ても(それでもできませんでしたが)、素のわたくしは全員を甘やかせるほど心が広くありません。

とは言え、「弱いやつは出てくんな」みたいな極端な差別意識があるかというと、それはないです。ゼロではないにせよ。

「弱いやつは消えてくれ」って考え方をしてると、当然ブーメランで自分もそうされます。それはいやだなあと思っています。

ふつうです。
わたくしはわたくしを可もなく不可もなくふつうだと思っています。

トップページを除けば、一番アクセスの多いページはこの独り言ページになってしまいました。あるあるですけど、結局人間って、誰かが何かをやってるところに集まるんですよねえ。

寂しがり屋だなあ。わたくしも含めてですが。

こんな、見て気分悪くなりそうなおきもちのページまでも見てくださってありがとうございます。気分悪くなるから見てしまうのかもしれませんけど。

そう考えると描くのに何時間もかかる絵や漫画は非常にコストパフォーマンスが悪い。でもわたくしの絵や漫画はわたくしにとっての資産だと思っています。

海外をほっつき歩いてた話はなんかこう、YouTuber的な感じになっちゃいそうであんまり漫画には描いてません。

というひねくれた気持ちもありますが、実を言うと放浪中にかかさずつけていた日記が引っ越しと共になくなっちゃいましてね。
詳しい日付とどこにいたかがわからんのです。

写真も相当たくさんあったんですが、インドの写真屋でネガに変えて、帰国して実家のどっかに放りっぱなしのまま行方不明です。

さすがに記憶だけで描けるのはよっぽど強く覚えていることだけでして。

わたくしがいつも求めていたのは愛情ではなく信用とか信頼関係で、恋愛についてもそれをベースに語られています。

だから男女間の友情とか友達とは何かとか、そういう話が好きで、何人つきあったとかモテる方法とか、「恋愛」という言葉から一般的に想像される内容にまるで興味がありません。ないんで描けません。

わたくしはよく、大人に助言できることはない、なんて冷たいことをいいますけど、困っている人にしてあげられることは実際少ないです。

期待させといて期待どおりのことが出来ないのは双方共に傷つくだけなんで、バランスが悪い人間関係は長続きしません。

わたくしはあんまり言葉での謝罪や反省を重要視してないんで、ものすごーく反省して土下座して謝っても、SNSで反省文を連発してても、それだけでは一つも信用してません。

普段から人と信頼関係を結んで来なかった人の語る反省は、自分が本当に心から反省していたとしても、「どうしてこんなに反省してるのに」って考え方が行動から透けて見えたりするので…。

実際一度なくした信用を取り戻すのがどれだけ大変かなんて、耳が腐るほど当たり前に言われてきたことも、わかりたくない人には一生わからないんです。

つまんない話ですけど、普段から嘘ついてる人は肝心な時に誰も相手されないじゃないですか。それがわかってるんで、自分を疑ってそうな人をすぐに切って、自分を知らない人に甘えようとするわけです。

誰でもいいんです。自分を脅かさない人なら。
本当に誰でもいいんですよ。都合悪くなったら切って逃げればいいと思っているからね。

でもそういうだらしない、どうしようもない人間に生きてる価値がないかというとそんなことはなく、長くつきあってればかわいげも見つかったりする。薄い関係性でも長くつきあうのは大事だとわたくしは思っています。

なんでもいいから書いたり描いたりし続けていると、自分の感情の起伏ややる気のあるなしがよくわかります。
そういう自分を知る記録としても日記は有用だと思いますが。

絵なんかは特に自分を掘り下げる作業ですからねえ。
疲れてくれば言葉のが楽な時もありますね。

なんか毎日言ってることコロコロ変わる気もします。
そりゃそうですよ。それでいいと思います。

2025/07/17

わたくしはどうにも免疫を低い状態で抑えられてるせいか、ここ数年で環境の変化に極端に弱くなってしまいましてねえ。
エアコンつけっぱなしの季節になると、アレルギーか何なのか、空咳がとまらなくてそれだけで疲れてしまいます。

授業で大声でしゃべるといっそう気管にダメージを与えるのか、なかなか治らない。

「推し」がどうのこうのって語るのと、「オタク」がどうのこうのって語っている文脈ってほとんど同じ内容に感じますが、「推し活」と「オタ活」は違うのかな。

敷衍するとわたくしにはメンヘラもコミュ障も陰キャも細かくジャンルがわかれているというより、本質的には「かまってくれ」「さびしい」「うまくいかない」「自分がわるいの?」という話を言葉を変えてえんえんと繰り返しているように見えているんですけど、そうでもないのかしら。

でも主人公より脇役が好きなのはそうなので、王道より脇道のが好きですね。こういう趣味ってどこで醸成されたもんなんですかねえ。

ヤッターマンの時点ですでに悪役の方が好きでしたけど。
味方のメカで言えばヤッターアンコウが好きでした。
ほとんど出てこないから好きだった気がする。

三沢のタイガードライバー’91みたいなものです。

「サブカル」と「サブカルチャー」って違うの?ほんと?
ごめん、まったくわかんないです。

結局なにかを自発的にやろうとする限り、最後は精神論にしかたどりつかないとわたくしは思っています。
合理的な理屈だけで人が動くのは初心者の間か、よほど知的に問題がある場合だけです。

わたくしは人が自分で気づいて行動を改めていく、つまり日本語の「成長」ですね、それを見ているのがとても好きです。

しかしほとんどの人間は自分の放つ悪臭に自分で気づきません。だから友達が必要だと言っている。
毎日一緒にいることが友達の条件ではないし、相手を否定しないことが優しさの条件でもないでしょう。

わたくしも今までこんな道徳の授業みたいなことなんて言わなかったですよ。言わなくてもわかると思っていましたから。

わたくしはまず、「同じことを何度でも言いたい」のです。
次々に新しく面白いものを生み出したいわけではない。し、生み出せない。そんな能力はない。
だから自分のことをクリエイターと言ったり、自分の絵を作品と言ったりはしないです。絵を描いてるので絵描きと言ってるだけ。

そして同じことを繰り返したい人間にとって、重要なのは「誰も大して覚えちゃいねえ」ということです。だからTwitterはとても好きです。
100回くらい同じこと言っても全然伝わってなかったりします。
「自分の考え」を広めるツールとしては機能してません。

しかし同じ題材の絵は描きますが、同じ絵を描いてるわけじゃない。これも重要です。

一枚描いて、えんえんとそれを自分でRTするような行動はとってません。別にそれでもいいわけですけど。同じこと言ってるけど絵が違う、人がわたくしに興味を持つ点がもしあるとすればそこだけです。

自分が絵描きとして売れる戦略を考えるなら、わたくしがやってることは全部間違ってると思いますよ。
毎日どころか毎時間のように描いててそれを垂れ流すのも悪手ですし、失敗したなと感じても全部公開してるのもだめです。

これは!という力を入れたものを定期的に公開する方がいい。

また、絵描きとして技術を向上させるのが目的の場合、これは人にもよりますけどわたくしのやり方では絶対にうまくなりません。手癖だけが強くなってその矯正に時間かかります。

ということを考えながらなぜ今のような形を取り続けたかといえば、そりゃもうおわかりでしょう。

そんなことより大事にしているものがわたくしの中に強くあるからです。じゃないとこんな無駄に時間使えません。しんどいのに。

わたくしと友達になっても何か得することあんのかな。
なんもないと思いますけど。面白いこと言うわけでもないし、金もってるわけでもないし。

すごい好き!友達になって!みたいな感じだったらわかりやすいんだけど、そういうのはギャルの学生だけですねえ。彼女たちはようく大人をみてて、誰の味方をすると得なのかいつでも天秤にかけてるから。
いいんじゃないですかね、頼もしくって。

わたくしが直接の当事者ではないんですが、訴えたり訴えられたりといった電話ばかりで朝からげんなりです。

わたくしでも、なんて書いてしまうと何様だって話になりますけど、まあそれにしたって、ネットばかり見てると「なんて自分は無能なんだ」って気持ちになりますよ。ええ。

わたくしの場合は「わたくしはできる」という自尊心の裏返しでもありますが。要するに本当は自信なんてないんだという事実をつきつけられますからね。

家庭環境・生育環境によって強制的に自己肯定感が低くなってしまった場合と、単にニートみたいな生活しててネット見すぎて自信なくすのとはわけて考えないとなあ。

奥崎と島根と1999年。
奥崎はほっとくと気分のままどっかへ行ってしまうような気ままな性格だったため、周りの人間は危なっかしくて、逐一奥崎の動向に反対したり止めたりしていた。危ない国とかにも平気で一人で行くからな。

わたくしが奥崎と仲良くなった本当の理由は、わたくしだけが奥崎の行動に対して全く反対しなかったからだ。と本人が言っていた。

どうせ俺達みな死ぬしな、がその頃のわたくしの口癖だった。
誰もノストラダムスでは死ななかったし、隕石は降り注がなかった。
この頃既に、職につく気が全くないわたくしは奥崎のお荷物になっていた。

湖の前で喜ぶ後ろ姿の人

2000年の人気ねずみとわたくし。
2000年というとわたくしは既に東京に出てきていて、人気ねずみは奈良で仕事についていたはずで、どこで会ってなぜプリクラを撮ることになったのか全く思い出せない。わたくしは左。

この数年後に家内ちゃんと仲良くなって「一緒に歩くの恥ずかしいから直せ」と言われるまで、わたくしは金髪にサングラスにひげづらに、真っ黒なコートの下は真っ赤なスーツで金のネックレス、のような、3日に一回は職務質問されるようないでたちだったため、街なかで喧嘩を売られることはまずなかった。

20代中盤。
なんの未来も展望もなかったが、わたくしは自由だった。
自由過ぎた。

2人の男性が並んで立っている写真。

2025/07/16

半分亡者のようになりつつ授業を終えてきた。
ロシアの留学生の子がお気に入りなんだけど、自信がなさすぎていつも私なんかだーめだと言っている。
見た目がほんとにエルフみたいなんでギャップがすごい。

こういう話をえんえんと書き続けるのはリスクも高いんですけど、少なくとも仮面を外して呼吸はできます。

「思ったらそのまま書く」「消さない」という
初期のTwitterと同じ使い方をしてみて、逆になぜ最初あんなにも楽しかったか、今がつまらないかをよりはっきり理解できた気がします。

何千何万と反応があり拡散したことも一度二度ではありませんが、まったくうれしくもなんともなかった。苦痛でした。

わたくしにとっては自分のおきもちだけが重要でしたから。
たまに正論も混じってたけど、ほとんどのおきもちは単なるその時の気分だったんで、それが楽だったんですよねえ。

今ここを見てて、わたくしなどすごい人には到底見えないと思います。
いい歳して、ってやっぱり笑いたくなるでしょう。
それでいいと思いますよ。

それはそれとして、「わたくしは人のためになにかしたい」って大手を振って言うのって格好悪くないですか。
これも世代ギャップでしょうか。

わたくしはずっと「わたくしはわたくしのことが常に最優先であり、余裕がある時だけ奇跡的に優しいこともある」というような態度をとってきております。それも実際には建前であるわけですが。

そうじゃないと眼の前で起きてる諸問題がぐちゃぐちゃになってわけわかんなくなるんですよね。はい次はい次って切り捨てていける感じならよかったんでしょうけど。

考えれば考えるほど「そうかなあ」にしかたどり着きません。
みなさんどうやってそんな瞬時に答えに到達しておるのですか。

わたくしが好きだったのはヤクルトミルミルで、マキタが好きだったのは無糖のコーヒーだったと思います。

書いているとまた細かな色んなことを思い出しました。
クラスメイトの顔や名前は全くといいほど覚えていないのに、そのかわりそんな情報だけが頭の中のどこかに記憶されています。

人間は不思議なものだなといつも思います。

電信柱のマンガに、自販機の思い出を送ってもらいました。
自販機もいろんな場所で思い出がありますね。

さがしたけどわたくしのもってる写真には高校の自販機は写ってなかったので、今の母校の学生がアップしていたものを加工して拝借しました。

壁や床の形は記憶のままですが、この1階の渡り廊下はもっともっと薄汚れて汚かったと思います。ここは外とつながっていて夜遅くなっても使えたので、暗い渡り廊下で自販機だけがぼうっと明るく、その明かりの近くでマキタやその他の人たちと話をしたのを覚えています。

わたくしたちの時代はペットボトルや缶の自販機はありませんでした。
病院などにある紙コップと紙パックの自販機でした。

紙コップの自販機には一つだけ飲み物の名前が書いてない空白のボタンがあり、押すと変な飲み物が出てきて飲むと呪われる、なんて噂もありました。

夏は蒸し暑く、Gが入ってた!なんて噂もありましたが、実際に見た人はいないので眉唾です。

何枚か描いた気がしますがいつ描いたか覚えてない。

わたくしは使いっ走りで4階の美術室からここまでよく買いに走ったりしました。たまにマキタが自販機の横でサボってるのを知っていたので、率先して使い走りをやっていたのでした。

自販機前の学生たち

ハイ、土壇場で今日もなんとか気分が昂揚してきたので、このままのテンションで授業できそうです。

ほんとに一体何と戦っているんだ!ですよ。もう。
つかれるわ。

創作と言われても何が創作なのかわたくしにはピンと来ないので逆に教えてもらいたいのです。

わたくしは一体何度「家内ちゃん漫画だけ集中して描け」と助言をいただいたことでしょうか。
でもそれできないんですよね。

わたくしがやりたいことは一つではありませんが、これはこうあるべきという、今絶賛嫌われる「自我」は強力にあって、それは食ってけるとか収入になるとかは関係ないのです。それがいいか悪いかで言うと、現状ではよくありませんがね。



よくクリエイター・創作という言葉を聞きますが、わたくしが見る限り、何者かになりたいワナビーの半分くらいは「社会で不適合の烙印を押されてどうしようもない自分に、何かやっているという言い訳を与えたい」という動機だと思います。

創作論はわかったけど、じゃあ何がしたいのと聞くと結構答えられません。自分が作りたいものではなく、「創作」という言葉について語っている時点でワナビーから脱出できないと思います。

わたくしにもそういう現実逃避の部分はありますが、
それだけでは毎日やってられません。

わたくしは1回に2、3時間しか寝ませんので、眠くなるたびに仮眠するといった感じです。常に眠たいのでいつでもどこでも眠れます。
全然自慢じゃない。ぐっすり寝てみたいのはやまやまですが、頭がフル回転したまま止まらなくなることが多いんで途中で諦めました。

入院した時はそれでも眠りましたねえ。睡眠薬もらってね。
できることないからね。

ゆうべも盛大にお気持ちを書き続けて、満足してちょろっと寝て、今日は前期最後の授業なのでその準備をしなくてはならないので早々に起きました。
しかし家事はやらんといかんし税金の支払いは来たし、3ヶ月無収入だしで気が楽になる要素が一つもありません。

そしてそういうケツに火がついた状態の方がわたくしは行動できるタイプです。



今日のクラスはいい子とだめな子がはっきり別れているので、そろそろだめな子は焦るように煽って、それでもだめなら仕方ないねと振り落としていく他はないです。

他人の意識や性格を変えることは先生でもできませんのでね。
でも嘘をついて褒めたりなだめたりしなければいけないことも多いです。
途中で生徒がやめたら学校は儲からないわけですから。
もちろんそんなことを要請されるわけじゃないですが、まあ社会常識であり現実です。

いやな仕事です。

でもやっぱり、感じ悪いから反射的にブロック、なんてのも同レベルの感じ悪さの気がします。そればっかやってるから感じの悪さをエンタメに変えて嗤う人間ばかりになって、結果的に場所そのものが腐っていくとも考えています。



優しいとはなんでしょうか。
ずうっとずうっと考えています。
いくつになっても考えています。

わたくしは茶化してほしくない時に茶化されるのはイヤでした。
しかし笑いたい時に笑えないことをぶつけられるのも困りました。
なんというわがままでしょう。

ですからごくごく小さな場所で構わないので、自分をネタにして笑わなくてもいい場所が欲しいといつも思っています。

日記で勝手にやってもいいんですが、
せっかくですからじめじめと自分語りを交換するのも悪くないでしょう。

悪意とは嫉妬です。99%嫉妬で出来ています。
その嫉妬がどこから湧いてくるか。無知からです。
無知とはどこから湧いてくるか。主にタイパです。めんどくさいんです、人を理解するのが。それよりも自分の今の感情が優先されます。

それは人間ではなく、別の動物です。
違う生き物なので話はできません。
この辺はわたくしの強い差別意識です。

悪意というのは執拗で、1回書いてすっきりする人はまずいません。自分で書いた言葉に呪われて、同じことを何回も何回も行います。
それをやっているうちに、後戻りできなくなります。

どうしても自分の弱さを認められない、あるいは病気その他の原因で自分を直視できない場合は、やるたびにどんどん一人で勝手に熱くなって勝手にひとりぼっちになります。そうなると必要なのはわたくしではなく、福祉と治療です。

なぜわかるかというと、わたくしもそうした部分を多々持っているからです。ただし、わたくしはそれを自己表現によって解決します。

面倒くさい人も、熱しやすい人も、冷たい人も、空気が読めない人も、自分のことを一方的にわたくしに書く分には誰にも迷惑をかけていません。誰にも迷惑をかけていない人は誰かに嫌われることもそうそうないです。だからメッセージは非公開としていますし、匿名で送れるようにしています。誰でも見えるところでやらかして、即座に弾かれてしまうのではあまりにかわいそうです。

迷惑というのは自分で考えるべきことを放棄して人にアクションを求めてしまう性格のことですが、これは自覚する以外自分では気をつけようがありません。

でも夜中や憂鬱な時には一人でいると不安で、どうしてもそんな気分になることもあります。わたくしはそういう独り言もいいよなと思っていますが、本当に寂しい人は掲示板とか投げ銭でチャット欄に書いた方が相手してもらえて幸せなのでは、とも思います。

とりあえず読みましたボタンが押せてメッセージ欄が表示されるならブロックみたいなことはしてないですよ。
それにわたくしは「おかしなことを書いてくるひとはほぼいない」という前提でおりますので、よほど悪意がない限りブロックなどはしません。

このサイトでブロック措置をとったことは9年間で2度だけです。
ただ、匿名ですからユーザ単位でのブロックはできないので、広域ブロックといって発信された地域や端末、プロバイダを丸ごとブロック対象にします。

つまり、仮にMacでケーブルテレビの回線つかってて○○県北部に居住している、のような場合、同じ条件の人は巻き添えでブロックされます。迷惑な人がいると巻き添えが出るのは個人サイトの宿命です。

わたくしはどうあっても「青春と恋愛とその失敗こそが人間を人間に形づくっていく本質である」という偏見を曲げるつもりはないです。

でも二次創作でかわいい女の子を描けるようにもなりたいです。
めちゃくちゃですが、それが本音です。

2025/07/15

みたいなことを考えていたら似たようなことを代弁している動画があったので貼っておきます。

結論は???となりますが。

右とか左とかそういうことじゃなくて、わたくしは鎖国したい。
鎖国し、閉じこもって、へんてこな文化を作りたい。

二次創作を見限った理由は以前話したことに加えて様々あるんですが、その一つに

・原作より二次創作のがいい

という意見を結構見てしまったことですね。
これ結構重い話です。これが誰の心の中でも少しづつ芽生えた気持ちだとすると、文化的には末期でしょう。

なんとなくオタクは次世代のオタクへのバトンの引き継ぎに失敗したんじゃないですか?そんな気がしてますが。
というかそんなこと考えてたりするんでしょうか。
最近は特に極小の身内界隈で小競り合いだけやってる印象しかありません。「好きだから」「愛が強すぎるから」とはわたくしの目から見ても到底思えない。

オタクだけの話じゃなくて、次世代への引き継ぎ、つまり平たくいうと「教育」ですが、すべての教育において何もかも失敗したというのがわたくしのここ20年の総括です。

大変責任を感じております。

なんでもかんでも貪欲に吸収して、好き勝手に自分たちの好みに作り変えるというのが古来から日本の文化における特徴だったわけですが(ガラパゴスとも言われましたが)、もうそんな空気感じませんしね。

以前Twitterで「絵なんかそのうちレトロな趣味になるだけだ」と言いましたけど、一年も経たないうちにもうそうなってる気がしますよ。
逆に一回そうなって壊滅した方が風通しもよくなります。

食える・食えないの線引きで文化を語るかぎり、なんにも残るものは生まれてこない。美術史もずうっとそんな歴史です。

懲役太郎ってVTuberが(多分わたくしよりだいぶ年上かと思われ)、「メンヘラってメルヘンチックな女の子のことだとつい今しがたまで思ってた」と言ってて、あーこりゃわたくしと一緒だわと思ったわけです。

そんなレベルなんですよ。議論なんかしたら食い違うだけでしょう。

それはそれとして、話聞いてて面白いやつって、こう、偏見と自意識にまみれててそれを隠そうともしない(もしくは隠そうとしてるけど全然隠せてない)やつなんですよね。お前ほんとに周り見えてねえのな、ってやつ。

ただ面白いやつが必ずしも友達になりたいやつとは限らないし、好きになるとも限らないところが難しいところですけど。

わたくしはずっとずっと自分の平凡性、没個性がコンプレックスでした。

恐らくそれから「オタク」は細分化され、今はわたくしが述べたネガティブなイメージのオタクを「厄介オタク」と呼んでいる感じでしょうか。ちょっと前は「キモヲタ」じゃなかったっけ。

なんで「ヲ」なの?
そこら辺の自虐も「俺は一般人とは違う」みたいな妙な自意識を感じたりしましたが、それはわたくし自身が自意識過剰だということでしょうか。

自分で自虐するのはいいけど、他人からラベリングされると怒る、みたいな。やだあそんな世界。

世界が狭ければ狭いほど、自分が所属する世界について語るのも日本的文化な気がしますから、永久に細分化と縮小を繰り返していくんだろうとは思うんですけど。

「メンヘラ」と同じで、わたくしはその道を通っていないから、つい授業で言っちゃって曲解されそうでね。
だから言葉の定義には興味があります。

前提として「オタク」という単語から瞬時に私の頭の中に浮かぶのは、「中森明夫」「宮崎勤事件」「メディアの過剰なバッシング」「宅八郎」「ロリコン」「コミュニケーション不全」「ゴンズイ玉」というネガティブなものです。

この偏見はわたくしが8、90年代を思春期として過ごした以上、しょうがない気がします。あれはメディアの扱いが何しろひどかったから。
単語自体が最底辺で気持ち悪いみたいなイメージがつけられてしまっています。

オタク自身も「俺はオタクじゃないマニアだ!」と主張していたような気がするんですが、オタクとマニアで何が違うのか、どっちが上なのかもよくわからなくて、結局何を言ってるのかわからないという経験もしました。

一つのことに熱中しているというポジティブな意味では使われてなかったはず。だったらわたくしもいろんな分野のオタクだと思います。

というジェネレーションギャップ的な話はどうにも偏りすぎている今のSNSではしにくいんで、いろんな世代の人から「オタク」という言葉で頭に浮かぶ単語を聞いてみたいんですが。

ひとわたり、ただおすすめに流れてくるVTuber犬山たまきの動画を見て、そういう風な極端なキャラクターを演じているという前提でも、「オタクはオタク自身の世界を猛烈に語る」って一般論は正しいんだなあと思いました。

なんとなく界隈とかコミュニティという言葉には近寄り難いものを感じたものの、人間関係や仕事への考え方はごくまっとうで正論、学生を啓蒙するにはいい語り口だなあと思って見てたんです。が。

なんかこう…ごめん、段々病気みたいって思っちゃって。
切り抜きだから余計そう思うのかもしれないが。

わたくしも全く清潔感のない人間ですので、同じく清潔感のない人間が集まってくる場所は居心地よかったですよ。

駅が再開発でアトレになって観光客に優しい街となり、コラボカフェも初期のニッチなぼったくり感がなくなって、歩いている人の半分以上が外国人になったところで全く行かなくなりました。

思い出というほど何十年も通ったわけではないですが、町の様相が変わると町自体を目的としていたわたくしのような層は行かないですね。
近場の中野ですら半年にいっぺんいくかどうかになってしまいました。

秋葉原は東京に来てからも全く行ったことありませんでした。わたくしは東京の西の方に住んでおりますので。

足繁く通うようになったのは、生徒がきっかけです。
2009年の生徒がアニメ好きで、卒業して秋葉原の会社に就職し、詳しくなったので色々紹介したいということで、アニメの中に登場する聖地を教えてもらいました。今でもよく遊ぶ生徒です。

そこからは一人で勝手に行くようになりましたね。毎週2回くらい行ってたこともあります。写真はわたくしがその頃頻繁に行っていた場所です。

・いつ行っても大体席が空いてるジャンク通りの喫茶店プレイス
・大きいお友達共がいっつも大声でカードゲームをやってていかにもアキバっぽい、席がなんだかねばねばしてた喫茶店タニマ
・HEYと並んでわたくしでも出来そうなアーケードゲームが並んでいたトライアミューズメントタワー
・ガチャポン会館の6Fにあったメイドカフェの元祖、キュアメイドカフェ。

全部なくなってしまいました。キュアメイドは移転ですが移転してから一度も行ってないです。

薬物・毒物・精神病・死体など、その辺の悪趣味界隈がサブカルチャーの中核を担った季節もありました。90年代はそういう「今までタブーとされてきたもの」をマイナー雑誌を中心に掘り起こすのが流行していたわけです。不安の時代なんで。

要は田中康夫の「なんとなくクリスタル」(1980)的な価値観へのカウンターじゃないですか。バブル的な。

中学生の時にネットでグロテスクな画像を探した、という経験は結構あると思います。rottenとかオグリッシュとかね。あれの源流はビデオ屋で普通にレンタルできた「デスファイル」「ジャンク」(成年指定でしたが中学生のわたくしでも平気で借りれた)と言った海外の事故死をノーモザイクで収録したシリーズでしょう。

ホラーの棚の隅に並んでたんで、18禁のホラー映画だと思って借りたらえらいこっちゃですよ。もう。ドキュメンタリーかよ!

そうした悪趣味な映像はなぜか背景にヒーリングミュージックのような謎の平和BGMが流れる「テイストレス」と呼ばれるジャンルになっていきました。

もっと遡れば、ゴールデンタイムにお茶の間で普通に放送されてた「決定的瞬間」とか、岡田有希子の飛び降り直後の写真や、日航機事故で腕だけが枝にひっかかってる写真を平気で掲載していた、当時の下世話な週刊誌なんじゃないかしら。

90年代末期だとどうだろ。GONとかBUBUKA?エログロでしたよね確か。
エログロ…正式にはエログロナンセンスか…はもっと古くて確か昭和の頭くらいだったでしょ。江戸川乱歩の時代だから。

やめ。やめやめ。
わたくしはサブカルには詳しくないです。

繰り返しますけど、わたくしは名指しできらいな人なんていませんので、好きなことを好きに語ればいいと思っています。
きらいになるほど仲良くなってない。

暴言については地雷があるので、地雷を踏めばそりゃあ怒ります。
じゃああらかじめその地雷を教えてくれ、怒らせないか心配だ、という考え方になる人だとあんまりなかよくできない気がします。

それはもう対等なコミュニケーションではないからな。

なまぐさくなってきた。やめよう。

わたくしが恋愛話を愛しておるのは、大山鳴動して鼠一匹、つまり大騒ぎしているのは本人だけで、周りから見たらあらあらというこの滑稽な温度差と、それはそれとして初めて自分の身に起きる、自分から逃げられない状況が彼彼女に嘘をつかせないからです。

言葉ではまあ適当なこといいますけどね、ふられたやつは。
わたくしもそうですよ。
しかし態度は嘘をつきません。

相手のことをちゃんと考えられるようになるのはもっと何度も痛い目に遭ってからです。

あ、元々黙ってても人が寄ってきて勝手にカップルが成立するような人種のことはわたくしにはわかりませんので、それは知りません。

こないだアラフォーの女の子と話をしていた時に、右翼と左翼って何が違うの?わかんないーという話題になりまして、そりゃあさすがにどうなの、と言おうと思いましたが、

まあフランス革命の議席の位置がどうのこうの、といううんちくと、「大体はこういう考え方」くらいは説明できるとしても、

現状を考えるともう右とか左でまとめられる話ではなくなってるんで、変に説明を与えると誤解を招きそうで、適当に答えておきました。

極私的な恋愛の悩みからスタートしても、ものを自分で考える癖がついている子であれば、最終的に大きな話題へ演繹してついてくることはできます。

わたくしは色んな国で革命や理想を語る大学生と話しましたが、基本的に彼彼女らは何も苦労したことないお坊ちゃんお嬢ちゃんだったりするのでひとつも説得力がありません。とりあえず苛つくから壊したいだけのお子様です。言ってることは立派ですがね。

そんな人たちの話よりも、ふられた死にたいという話の方が現実味がある。わたくしは自分の手の届いていないものを言葉で弄ぶ人間が非常に嫌いですし、「自分は頭がいいから語る資格がある」というような悪臭を放つ人間もお断りです。

三重県というのはとりわけ反戦思想及び自虐史観の教育が強い県でしてね。調べてもらえば色々でてくると思います。

今でも覚えてるのが、小学校の階段の踊り場にいつも朝日ジャーナルの報道写真が貼られててね。

それがまあ、小学生に見せるべきなのかどうかという内容なわけです。わたくしがはっきり覚えているのは、ベトナム戦争の写真で、グレネード弾でばらばらになったベトナム人兵士の肉塊をアメリカ兵が拾って確かめている写真でした。

ああいうのって目に焼き付いて離れないです。

確かにわたくしの中には反戦というか争いそのものを忌避する心があり、ゆえにガンダムやロボットものも好きでなく、格闘ゲームも苦手でゲームは卒業、たとえ殺されても戦わないというような、いわゆる左寄り理想論のお花畑が広がっています。

子どもにただただ恐怖を植え付けてどうなったか。
わたくしは自分自身を顧みて、やはり政治思想の話は自我ができていない人間にするべきではないと考えています。

ええ、今のアカウントにする前は絵描きともさかんに交流してたし、オフで会ったりしてましたし、会ってみたら高校生だったみたいなこともよくありました。

わたくしもその頃は、ふだん同じような学生と接してるんでネットも同じ感覚だったんですよね。

その後、SNSの発達と共に「ネットで知り合ったおじさんと会った結果えらい目に」という信じられん話を学生本人から聞くようになり、わたくしも「自分がネットのおじさんに過ぎない」とようやく自覚して(遅い)、それから

・ネットでは自分から声をかけない
・名前と年齢は会う前にそれとなく確認する

という当たり前のことを徹底するようになりました。
いや、先生っつったって教員免許もってる先生じゃなくて、ただの雇われ講師ですからね?一番怪しい職業です。

お若い人は、わたくしのような人間には絶対会おうと思わないでください。

自分のかわりなんていっくらでもいるなあ、と思うと、自分しか知らない、自分にしか描けないものを表現しておきたいって思いません?

わたくしは思うねえ。わたくししか知らない、本人でも気づいていない、そのかわいいところを描いておきたいと。

中野の再開発はいつ終わるのかわからないけど、
アキバも吉祥寺も再開発が進めば進むほどみんな同じような感じになる。
思い出補正と言われればその通り。

古い町並みをがんばって保存する。それも相当な金がかかる。

わたくしの姿勢としては、面白い時代に生まれ、面白い時代を堪能し、時代と共に消えてゆく、それでいいかなとも思っている。

水曜に授業へ行けば9月まで授業はない。
情けない話ではあるんですが、やっぱり人とつきあう仕事は自分も摩耗します。

それで家賃くらいは払えるくらい講義料がでればもう少しやる気も出るんだけどもな。

2025/07/14

しかし実際、美少女とかアニメとかVTuberが好きな人ってどんくらいいるんだろう。なんかTwitterとかだとあたかもそれらが絶対的多数に思えてくるんだけど、実際そんなにはいないよなあ。

大学の同級生でアニメ好きって一人も見たことないし。

セクシャルな話はもう全然興味がわかないなあ。大学前半くらいまででしたね。
女の人に異常な憧れをもったまま歳くってしまうのもだいぶ厄介ですが、それと同じくらい「男は常にそういうことばっかり考えてて汚らしい」という強い思い込みのある女の人も話が通じなくて退屈です。

いずれにせよ、何度も言ってる通りそういうのって恋愛の結果たやすく破壊されるものなんで、破壊されるのが怖くて守り続けたまま長年過ごしてしまった人を、考えが変わるまで辛抱強く待つというのも難しいでしょう。

一方で、ホラー映画は好きは好きだけど、フィクションやエンタメはそんなに好きではない。

悲惨な世界の様子を見て喜んでいるわけでもないんですが、どうにもそこばかり注意が向いてしまうんですよねえ。
これは自分が明るい気分の時も暗い気分の時も同じです。

多分「死とは何か」を問うことが好きなんだと思う。
死は医学的な死と哲学的な死とで、語れる内容が全く異なりますが、わたくしが関心があるのは哲学的な方です。
ハイデガーなんかはその辺をがんばって考えた人です。

まあね、治したいと思ってるわけでもないんですが、
なんなんだろうなあとはずっと思ってて、
故に仏教ほか宗教の死生観にも興味はありますねえ。

詳しくなりたいわけでもないのに、悲惨な航空事故、悲惨なF1事故、悲惨なパンデミック、悲惨な民族紛争、戦争・原爆・アウシュビッツ、津波、多分その辺りなんだかものすごく詳しい。

下手すると好きな分野であるはずの美術とか哲学より詳しい。
特に動画時代になってから、「墜落した飛行機のボイスレコーダー音声」に強烈に吸い寄せられる。そういう動画がいっぱいある。
何度も何度も見てしまう。

怖いとかかわいそうと思ってるかというと、よくわからない。
最近は孤独死清掃みたいな分野も漁るように見た。

確実にいい気分にはならない。
「自分は生きてて幸せ」という気分にもならない。
ただただ、人間の儚い運命を追いかけてしまう。

前にもちょっと書きましたが「ドゥームスクローリング」にかなり関心がある。

簡単に書くと、暗い内容・暗いニュース・悲観的な物語ばかりを見ようとしてしまう心理的な現象で、コロナ禍によって可視化された。

わたくしは元々そういう傾向があって、「わあたのしい」みたいなものからなんとなく目を背けたい。自分自身がその楽しい輪に入っていると段々息ができなくなっていく。

素直じゃないから、で大抵終わらせていたが、楽しい人を見てケッと思うわけでもないので、反抗してるだけではないと思う。
わー盛り上がろうぜーってなってるど真ん中で「でも結局みんなそのうち死ぬわけで」とかそんなことばかり考えていたので、外面に出さないよう苦労した。

苦労したがやはり漏れ出ている。

そうねえ、ここ3ヶ月、わたくしも一日中家にいて、だらだらと動画を見ながら絵とか描いてるばかりなので、あんまり動画を流しすぎるとその影響を知らずしらずに受けてることにはっと気づきます。

「ひきこもり」「ニート」がどのような頭の中になっていくか、今まさに自分で体験していますが、こりゃあよくないですね。本当に。

自分も簡単にモンスター化して、政治がどう、界隈がどうとかどうでもいいことをぺらぺらしゃべりそうです。

そうやって知らず知らず友達をなくしていく未来が見えるので、わたくしはとにかくわたくし自身にのみ集中しなくてはなりません。

基本、わたくしは怒っているわけではないし、人に対して上から目線で反省して欲しいと思うわけでもなく、常にわたくしの同意を得る必要はないです。ご自分の判断で何かするならその通り行動すればよいかと思います。

マナーやモラルをきちきちに決めないとコミュニティが崩壊するような界隈と違って、わたくしは「みんなで楽しもう」という感覚がないので、交流とは言ってもこのページ程度のことで、見えないところでものすごく誰かと仲良くしているということもありません。

何にせよ、わたくしは自分のわがままを通すためにサイトに引きこもっておるわけですので、その辺を尊重していただければと思います。わたくしはクリエイターでもVTuberでもないので。

ふわっと書くとわからないだろうなあと判断した場合は強い言葉で書きますが、わたくしもあまりそんなことは書きたくないのでどうぞご自身でまず静かにお考えになるとよいかと思います。

どうしてよいかわからずわたくしに聞きたくなった場合は、おそらく何もしないということが正解だと思いますよ。これはどこの世界でも同じだと思います。

でもね、わたくしは学生とつきあうことが多いんで、「一人ぼっちになっても死なないように」という目線で言葉を書くからこうなりますが、

そういう子どもじみた人ってある一方で魅力的でもありましてね。
だからそういう人を好きな人と出会えれば幸せなんですよ。ええ。
つらい思いをして自分と向き合う必要もないと思います。
そんなにうまく大人になれる人なんて、わたくしを含めほとんどいないわけですし。

ただ、そういう人同士が出会って求め合うと、たいていは共依存の沼にハマるんで、そうするとこれもまた厄介な泥沼、更に他人が介入できなくなるんでぼっちよりもっと深刻な話になってきます。



という話ばかり書いて、更にわたくしが「そんな君でもいいんだよ」という姿勢をとった場合、それは宗教でありスピリチュアルです。

どうして世の中には欺瞞に満ちた新興宗教やスピリチュアルが溢れ続けるのか。
それはわたくし程度の人間でも簡単に人を騙せるからです。

わたくしのこういう話は、わたくしが今まで自分の周りで直接見聞きしてきた例、一般論に過ぎないんですが、
どうしても劣等感や被害妄想が強いと「これは自分のことを言っているのか」という考えに傾きがちです。

中学生の頃に「人間失格」を読んで太宰は俺の心を読んでいる…と思い込むような、そういう幼児性ですね。

普通は「そういう考え方もあるのか」「思い当たるから傷つくなあ」程度の感想しか持たないんですが、自我が弱いと自分を強く否定されたと感じ、言葉を言っただけの本人になぜか食ってかかるという行動を起こします。

○○くんはダメ人間だ。
と書いたら○○くんは怒って当然ですが、
一般論に対して相手にくってかかるのは認知の異常です。

これが今問題になっている距離感の問題です。
自己愛性パーソナリティなんて言葉もありますが、そんな格好いい名前じゃなくて、ただの駄々をこねてる子どもですよ。

昔からわたくしの周りにも何人かはいましたけど。

じゃあお前はなんなんだ、と言われると
わたくしは「まちなかで職場で世界のあらゆる場所で暴れまわる中年モンスター」になることに心から怯えている、いち中年です。

日記が続かない人は2つあって、
・自分に向き合えない人
・向き合う必要がない人。
です。

向き合う必要がない人は既に自分や生活に満ち足りているので何もする必要がありません。絵を描くのが思春期から学生時代に偏っているのは自分がまだ人間でないからです。

細かい愚痴や不満は生涯なくなりませんが、生活が安定していると食う手段または完全な趣味として以外は絵なんか描く必要がありません。
日記もその頃までに癖になってなければ、新たに始める人もいないと思います。

また、自分を直視できない人は日記は日記でも、必ず人に見てもらうweb日記を選びます。ブログでもSNSでもなんでもいいですが、自分の中に沈滞して自分と対話することができません。すぐに他人の目を求めます。最強に最弱な人ということになります。

自分を見てほしいという承認欲求と、双方向コミュニケーションの区別さえつかなくなってきます。自分を見たくないからね。

そうしてうまく脱皮して人間になれないまま、失恋や死別などのイベントが起きてそこでも自分に向き合う勇気をもてなかった場合、モンスターへの道を一直線に突き進むということになります。

とは言え、最初は勘違いするのが当たり前で、それがやる気につながるなら誰も損はしないと思いますねえ。

ただしそういう傲慢な考え方は歪んでますから、成長する過程のどこかで痛い目に遭うはずなんですよ。人とコミュニケーションしないと誰にも会わないから痛い目にも遭わないんですが。

人間はきっとそうやって段々丸くなっていくものだと思うし、これは絵描きに限ったことではないと思います。

圧倒的に才能があれば傲慢でも許されてきた、という世界が崩壊し、何をするにも社会人的なスキルとコミュニケーション能力が必要になった今、

コミュ障は早いうちに矯正せんといかん、とわたくしがめちゃくちゃなことを学生に言うのは、後で自力で治すのはほぼ不可能だからです。

まず基本としてどんなにいい顔してても、絵を描くなんてことは、えんえんと自分に向き合って更にそれを人前にさらすというような行動ですから、めったにいい性格にはなりません。

なるとすれば、こうなりたいという希望を自己実現できて何者かになれた時か、あるいは最初から他人のことは気にしないという性格だったということでしょう。

「創作は尊い」とかそういうのはファンの人(自分では描かない人)が盛り上げるために言ってくれる、よくわかってない人ならではの大げさなマンセーでもあって、それを真に受けて「そうだ俺のやってることは尊いのだ」とか勘違いするからおかしくなっちゃうわけで。

2025/07/13

これから一生傷つかずに生きていくことは可能です。今すぐ死ねばもう傷つきません。そんな風に考えること自体はよってたかって否定されるような、悪い考えではないとわたくしは思いますねえ。
他のことを考える脳みそのリソースがちょっと不足しているんでしょう。

しかし傷をつけたことも、傷を塞いだこともない人がそんなこと考えてもなーとは思います。

重いうつ病の人の希死念慮やその他の気持ちをわたくしは多分寄り添って考えてあげることはできません。

わたくしの「死にたい」は「すべてわたくしの思い通りになれば多分死にたくない」ということを自身がよく知っているからです。

ですからそれを飛び越えた、そんなレベルでない「死にたい」が、話せば楽になるのか、薬で治まるのか、どこが終着点なのか、残念ながらよくわかりません。丁寧に言えばそうなり、短文でいうと「知らんがな」になります。だから短文は嫌いです。

「どうして欲しいんだ」は言ってはいけない言葉でした。それがちゃんと言える人なら今までも誰かが助けてくれたでしょうから。
本当にごめんなさい。

わたくしと同じ世代の方から、「全て封印していた過去の中にも、良い思い出は確かにあったのだということを思い出しました」というような感想をいただくと、わたくしがやっていることは全くの無駄ではなかったと思え、こちらこそありがとうございますという気分です。

女性の気持ちを歌った歌手として無二の存在である中島みゆきは「Maybe」の中で「思い出なんか何ひとつ私を助けちゃくれない」と歌っていますが、女性的な自分との付き合い方であるのと同時に、もちろんそれは強がりで思い出には価値があり、だから明日もなんとかやっていけるのだと弱いものの気持ちも歌っています。

「Maybe(多分)」ですからね。

わたくしが沼の底にいる時によく聞く歌です。

わたくしは何があっても「かわいそうな過去を持つ人間」にはなりたくないし、「昔は俺もワルかった」みたいな人間にもなりたくないし、どんな人間でもありたくないです。

人が自分をどう規定するかは人の勝手です。
まああんまり無能無能言われたらいつかはキレると思いますが、わたくしはそれを操作したり口止めすることはできません。

自尊心という言葉のあり方は今後重要な意味をもってくるはずです。
人間関係の中の自分ばかりが強烈に拡大され続けてきた今、もう一度孤独と自尊心について考えてみるのも悪くないだろうとわたくしは思います。

ふりかけごはんで一週間ねばったんですが、さすがに野菜のストックが切れたため、ふらふらとスーパーに行きました。

桃が出始めていて、2個1,000円の桃を買ったよ。

レジ終わって袋入れてるときに急に冷や汗でてきてねえ。しばらく袋詰める台につっぷしていました。貧血かもしれん。店の内外の温度差ひどいから。

声かけて欲しかったわけじゃないんだけど、隣の台では袋詰めを終えて次々と人が入れ替わってゆく。さすがにここでばたっと倒れたら邪魔だから店員を呼ぶんだろうなあと思いながら、その目まぐるしさと暑さで呼吸が苦しくなった。

どっかのクソガキがわたくしを指さして「なんかいるよ!」と大声をあげた。こんばんわ、「なんか」です。

声優が2010年あたりから、声と演技がうまいだけではなくて、見た目やキャラでアイドル化してったのと同じで、絵描きもそうなってる。

うまいのはもう当たり前になってて、さらに自分をどうキャラ化するかを戦略としてみな考えている。そしてそんなの意識してないよというふりをしている。

配信してるかしてないかの違いで、絵描きに必要なものもVTuber的なことなんだろう。VTuberとは何かといえばアバターなんだから、メタバースの世界とも言える。

相手がどんなブッサイクでも、好きになったらお姫様王子様に見える、という経験は誰でもあるんじゃないかと思うんですけど、メタバースにはきっとそれがない。
ないのはいいとして、他に何があるんだろう。

まだあんまり詳しい人が周りにいなくてよくわからない。

こないだちょろっと授業でAIの話をしただけなんですが、もう各AI(chatGPTとかgeminiとかClaudeとか)から出力されるキャラクターの顔の方向性を学生は判別できるようになった。

chatGPTから出力される顔には生気が感じられないとか、geminiは三國無双のキャラみたいな中国絵師っぽいものが出てくるとかね。

意外とこの素のAIっぽさってのはなかなか消えないのかもしれない。
あと色ね。多分マテリアルデザインから学習してるんで、いらすとやみたいなものを出力しても色が日本人の使う色じゃないから大体わかる。

日本人の絵ってそんなに学習されてないんじゃないの。
美少女キャラクターも中国絵師が日本から勉強して描けるようになったデザイン感はある気がするし。

こうしたわたくしの自分語り、今は「自我」かな…を全部漫画で描こうとしたのがちょっと自分を買いかぶり過ぎてたというか、無理な算段だったんでしょうねえ。

ずうっとこういうこと考えながら描いてたんで、絵の技術や見せ方には触れる余裕がなくて。

逆に今、絵はすごいやる気でいっぱいです。
バズらないのはバズる内容の絵を描いてないからで、それに特化した時間も欲しいと思っています。かわいくてきれいな絵も、描けるようになりたいしなあ。

残された時間(資金的にも体力的にも)はそう長くないですが。

おっさんおばはんが突撃してくるからSNSやめて中年がいないTikTokに、ってすごい納得する話だと思いますけど。わたくしTikTokって一回も開いたことないしな。

あ、あるわ。こないだ生徒がTikTokのPhotoshop動画が英語でわからんというので、翻訳して説明した。短く編集され過ぎてて誰もできないよあんな操作。

そのうちまた別のが出てきて子どもたちはそっちへ逃げていくんだと思う。そりゃそうです。高校生からしたら22、3だっておっさんおばはんですよ。ましてや30とかそれだけで気味悪いんだからさ。
つっこんできたら嫌だよ。
自分たちだってそうだったでしょ。

ただ、全員がそうかというと、「そういう同世代で群れてるやつらが嫌」というひねくれものも多数おるわけで、なんかコミュニケーションを求めてくるまでほっときゃいいんじゃないですか。

ただほっとくにしても顔と名前を認識して見ているというのは必要だとわたくしは思っています。「お前誰だっけ」と「お前の言ってることはこうこうこうで話にならん!やり直し!」とは違うからさ。

ここ10年くらいの学生を見ていると、恋愛や失恋に絡んで、必ず両親との関係や自分の生い立ちに話が及びます。どうして自分はこうなのかという自我が芽生えるからです。

これを昔は「人を好きになると全員哲学者になる」というような言い方で表現していたんですが、子どもに反抗をさせない、反抗期に耐えられない親が増えた結果(それも事情があるとは言え)、いつまで経っても親子関係を脱出して他人との関係に踏み出せない人間になっちゃってるのを強く感じます。

まあねえ。単なるパソコンの先生がそんなもん気にするのは分不相応というか越権というか余計な話ですけどね。

わたくしもクソ真面目なんで、口が悪いとかメンタルが紙とかは全くどうでもいいんですが(すぐ矯正できるんで)、「もう自分から逃げられない」という状況に置かれた子が好きなんですよ。

スラムダンクの安西先生が、伸びていく花道を見て時々ぶるぶるってしてたでしょう。あれに近いと思います。
変に頭が回りすぎるやつは全部自分で説明しちゃうんで途中で成長が止まるんですよね。

でも気持ちのよい人間関係以外を拒否して思春期を送ってしまったら、それが許されなくなった時にめちゃくちゃするじゃないですか。粘着するとか刺したりとか。ごく一部とはもう言えないでしょう。
歳食えば食うほど自我が破壊された時に幼児化するわけで。

恋愛って一種の病気であり通過儀礼でもあって、他のイベントでは代替できないものだとわたくしは思ってるんですよ。
わたくし自身のことを考えるとね。

「推し」「推し活」の心理的な内容も気にはなるんで、最近は犬山たまきとか辛口にその辺を解説している動画も含め、色々見てたわけなんですが、なんかやっぱりよくわかんないことも多くてね。

わたくしはまあこの国がいずれ滅んでもあらそうですかみたいな感じで、少子化がどう、結婚がどう、みたいな話にはあまり興味がないんですが、そもそも「人間が好きでない」「興味をもてない」のはもったいないなあとは思っています。

そうですねえ。わたくしの一番の目的はオリジナルキャラを作ることではなく、また「好きだった人の絵を描く」ことでもなくて、

「わたくしはこういう人を好きだったし、人間を美しいと思いました。あなたはどういう人を好きになって、今はそれをどんな風に感じていますか」

という人間賛歌ですんで、反吐が出るお花畑とは言えるでしょうね。
自分ではどうしようもない暗い出来事がいっぱいあって、人を好きになるどころではなかった、という人からすれば、なんだこいつと思われるのも仕方ないかなとは思います。

「飛べ!イサミ」って90年代でしたっけ。
この絵柄って古いの?
そのへんがピンと来ないからだめなんだろうなあ。

笑顔のアニメキャラクター。

最初っから「ゆるくつながる」って全然できなかったもんなあ。

寂しがり屋というより、せっかく知り合ったんなら何か互いに面白いことがあるといいなとか思っちゃうからダメなんだな。

90年代にはそれを求める人もいて、今はそんなものはいらんというだけだろう。

わたくしはキーキーなることも多いですが、本気で怒ってるわけじゃないので、現実では何日かしたら仲直りしてもう一度、みたいなことが無限に繰り返されるわけで、それが普通だと思っています。

簡単に切断できる関係は最初は楽なんですけど、それ自分にはいらんなと思っちゃってね。

「ネットでどうやって人に接していいかわからん」
=1対多数のコミュニケーションができないわたくし

について結構考えていたんですけど、ふと考えたら、
わたくし数十人とは言え何十年も授業やっとるわけじゃないですか。
全然やれてきたわけじゃないですか。1対他のコミュニケーションできてるじゃん。

なんでだ。

と思ったんですが、授業とは違うよね。一人一人見て回るコミュニケーションだもの。好きな学生を優遇したりとか、クソガキを無視するということは余程じゃないとしないしさ。教育だから。

これをネットでやろうとするから距離感がわかんない中年になっちゃうんだろうなあ。同世代の大多数が部下をもった管理職でしょうから、なるほど、そうなるよなあ。

「一人一人見ようとする」これは癖だね。
治せるんかな。

相手に気を遣わせないのが一番の気遣いだとわたくしは思うんで、時に乱暴な言葉をつかってみたり、人をバカにしてみたりもしますよ。

いつだって本気ではないです。本気は人に気を遣わせるので。
そうでしょ。

相手の気が楽になるならなんでもします。
間違ってたら次から修正します。

普段誰でも意識せずやってることですよ。特別なことはしてません。
わたくしのおきもちなんかどうでもよいです。

そのかわり、こういう場所を自分で作って徹底しておきもちしか語らないようにし、バランスをとるわけですよね。

わたくしは何か隠してるとか嘘ついてるということに非常に敏感にできていますが、それをつっこむかどうかはその時次第です。

ネットでは情報が足らず、どの文脈で言ったのか短文だと余計わからないので疲れます。だからまず自分の話を書けと言うんです。自分を理解して欲しいと思うならね。どうでもいいならどうでもいいです。

ほとんどLINEは使ってなくて、「◯日✕時集合」「了解」みたいなやりとりのみなんですが、時々は様子のおかしいLINEが来ます。

普段使わないんで様子がおかしいとすぐ気づきます。
かまってほしいけど連投するとウザがられるかな…みたいな空気が充満してるLINEね。あるでしょ。

わたくしはそういう時、自分からどうでもいい内容を連投してやります。連投っつったって3、4回ですけどね。
そうすると大丈夫なんだと思うらしく、相手の連投が始まると。

遣わなくてもいい気かもしれませんし、ズレてるかもしれませんね。
気を遣うなんてのも自己満足だと思います。

わたくしはわたくしがして欲しいことをするのが気を遣っているということです。

龍安寺に「知足のつくばい」という有名な置物があります。
つくばい(蹲居)というのは庭とか神社、茶室の前に置いてある手水石、あの手を洗ったりするところの石のことですが、龍安寺のものには漢字が書いてあって、

真ん中の□をくちとすると、「吾 唯 足 知」になります。
禅で言うところのワレ タダ タルヲ シル、満足するということを知れ、ということです。

龍安寺はそこそこ下宿から近かったので学生の間に何度も行きましたが、禅問答は哲学としては面白いけれど、どうにも説教くさくてかなわんなと思ったりしました。

これも要は、人の基準に合わせてたらどんだけ金持ちになっても幸せにはなれん、欲を抑えて自分の基準で満ち足りろという、若者にはあまり響かない言葉です。

こういうのがね、段々いいなあと思うようになっていきます。
わたくしは元々歴史上の人物のような、すでに死んでる人の言葉が好きでしたが、最近拍車がかかってきました。
生きてる人間は生きてる限り生臭さから逃れられませんので。

死んでる人間の暴言は、暴言だとしても他にどうしようもないので、なんだ聞いてやろうかなという気になります。

庭園の石製手水鉢と苔

わたくしも特にそういうところあるんですが、自分がうまくいってる時はなんでも言えるわけです。
追い詰められると馬脚を表すというか、急に格好わるくなる。
言い訳がましくなる。
被害者側に自分を置く。

通常はその辺も踏まえて痛い目に遭っているので、あまり大きなことは言わなくなっていくんですが、なんかそれだとつまらん!みたいな余計なサービス精神が発動して火に油を注ぐ結果となりますね。

漫画家・イラストレータ自身が配信する動画もさんざん色々見ましたが、わたくし自身は例えばさいとうなおき先生やixy先生と言ったような、若い子をメインターゲットにした戦略的な今の時代に合わせたチャンネルよりも、

安倍吉俊先生のような大体同世代の、哲学や美術に半分引っかかってるような作家に強いシンパシーを感じます。

やっぱり与えられた役割を演じている人よりも、自分の言葉で語ろうとして語ってる途中でしょっちゅう自分でもよくわからなくなっている安倍吉俊先生は人間くさくていいなあと思うのです。

2025/07/12

つい辛口の動画ばかり流れてきたのを素直に見てたんで辛口になってしまいました。Vtuberも色んなキャラで差別化しないといけないんで大変でしょうね。話の切断の仕方がホリエモンとよく似ています。

案外あの辺を研究して、オタク界隈に持ち込んだのかもしれません。ものすごい正論ばっかりなんですけど、基本の考え方はやっぱりオタク的なところに基準があって、時々ん?と思うのが面白いところです。

歳が10違えばほぼ話なんて合いませんよ。
ワンチャンもなんもあるわけないです。

例えば仮に女子学生と話が盛り上がったとして、それはわたくしという中年かつ先生という立場において、気を遣って話を合わせてもらっておるだけなのです。それ以上も以下もありません。

おっちゃんおばちゃんはそれを常に頭に置いておかないとおかしなことになるんで、同世代の人間にかまってもらえないなら、なおのこと下の世代の人に友達としてかまってもらえることはないです。

だから「諦めろ」とずっと言っている。
諦めて自分のことだけクソ真面目にやってるとごくたまーにかまってくれる人はいます。わたくしにもごくたまーにメッセージでかまってくださる奇特な方はいらっしゃいます。ありがたい話です。わたくしが金持ちだったらお金をバラマキたい気分でいっぱいです。

かまって欲しそうな人にかまうのは、同じく自分がかまって欲しいだけの勝手な人なんで、友情は芽生えません。発生するのは薄い薄い傷の舐め合いで、更に自分の首が締まります。

でもそれが必要な時もあります。自分が弱ってるとね。完璧な人間なんていませんから。
しかしそれが許される季節にも見えない年齢制限はありますよ。見えないだけで。

話を聞いてくれって言うんで上のようなことを話すと、救いがないじゃないかって怒り出す人もいました。

そうですよ。本来思春期にへし折られる鼻を今折られてるわけですから、両親も先生もおせっかいな学級委員も微妙な距離感のクラスメイトも、もう誰もいないんです。

「さみだれちゃんが最後に言った言葉で青春モノクロームは終わり」みたいなこと言いましたかね。すっかり忘れました。
さみだれちゃんの完結をもって一旦絵はやめて仕事に集中しようと思ってたのかもしれません。

基本わたくしの思い出はちゃんと始まって終わる話が少なくて、気づいたらそうなってたという歯切れの悪い終幕に、自ら物語を与えることが出来ず、完結できないまま放置されてるのが多いです。

さみだれちゃんの話はもう20年経過してますけど、青春モノクロームの最後の季節に当たるんで、まだ描こうとすると抵抗がある。
後ろめたいのです。

もうすぐ40になるわたくしの教え子(男子)は、在学中全く人とコミュニケーションとれませんで。
ただ呼べば必ず来るんでスカしてるわけじゃなくて、「オタク」という自認から外に出られずに勝手に色々自分で決めちゃってただけでね。

去年彼らの代と旅行いった時に、みんなでホロライブの話ばかりしとったわけですが、「ガチ恋についてどう思う?」と聞いてみたところ、場の空気的には「あれは厄介だ」「キモイ」という感じになりました。

すると普段全く発言しない彼がぼそっと
「他人との距離がわかんねえやつばっかなんだよ。許してやってくれ、俺もそうだった」
と言いましてねえ。

みんなで「お前ほんとに大人になったなあ」と褒め称える旅行となりました。

わたくしが大事にしている情緒やセンチメンタルは絵で描きたいですねえ。文字ベースなら同じ専攻の友人と話してる時の口調で書いた方がストレス解消にはなります。

青春モノクロームのベースになっている日記も、「悪とは」「概念とは」みたいな日記です。日記なのかなこれ。

◯◯さんはXXXである、みたいなのも多くって、一般的に言えばあんまりよくない性格だなとは思いますね。

10年くらい前に、ネットの一番よくないところは学校と違って強制的な卒業がないことで、一年に一度、あるいは最長三年に一度は、3月が来たらフォロアーもフォローも全部解散して強制的に卒業し、また1からクラスを作り始めるシステムはどうだ、という話を書いていました。

SNSはブログと違って、本質的には受け身なツールなんで、1年くらいやればすぐ世界が固定化し、何かやらないと見てるだけの監視ツールになるでしょ。

昨日と同じ明日を求める人間ばかりが集まってると、まあ苦しくなりますわどうしたって。

自分のこと、自分の立場を明確にせずに何でも言えるというのがネットのよいところだったはずですけど、今でもそれをよいところと思える人は少ないでしょうねえ。

SNS自体が悪いんじゃなくて、要は卒業できなかった人が吹き溜まっていくから悪化してくわけでね。なんでも長く続けてると弊害もありますよそりゃ。周りはどんどん変わっていくのに、自分だけ変わらなかったからしがみついてしまいますし。

90年代のネットが今よりよかったなんてことはなく、普通に変なのは湧いてくるし、あちらこちらで今と同じような殺伐空間は発生するし、小さなローカルこぜりあいをエンタメとして見物して嗤う人間は大多数だし、で今と同じです。規模が小さかっただけで。

では今と何が違ったのか。

それはわたくしが若かったというだけかと思います。

とはいえ、やってみるとわかりますが、わたくしのような素人絵描きにとって、元の絵を見てそれに似せて描くってものすごい難しいんですよね。特に現実でなくアニメっぽい絵であればあるほど。

もし最初から、見ながら描いてそっくりに描ける能力をお持ちであれば、カメラアイ的な才能が先天的にあると思うんで、石膏デッサンとかやってみるといいと思います。ほぼ勉強なしで美大行けると思いますよ。

わたくしが今まで描いた中で、一番元の絵に似せられたと思ったのは、2018年に描いたこの岩鬼くらいです。美少女の絵はほんとに難しいです。

笑顔の男とヒマワリ。

ルールもなんもわからないまま、ただ楽しいんで二次創作から始めてみたわけですけど、最終的にわたくしが思ったことは

「二次創作はめちゃくちゃ絵のうまいやつだけがやればよい」
ということで、あんまりやらなくなりました。

わたくしはわたくしの「これ」という主張がどの二次創作をやっても強すぎて、また絵も全然だったんでそりゃあリスペクトがないと言われても仕方ないなあとは思いましたね。後からですけど。

わたくしの場合は、長い間ものを教える職についているので、「応援したい欲」は現実の中でほぼ満足しちゃってて、ネットではあんまり応援応援!リスペクトリスペクト!わあわあ!ってわかりやすい行動をとらないから、自分勝手に見えるのかなあ。わかりません。

わたくしは全く善人ではないので、その場にいない人の悪口大好きですよ。ええ。
再三説明しておりますが、いない人の悪口は最もセンスが問われるので、センスがないと自分だけが嫌われる羽目になりますから、その辺はよく自分を見て、いい子でいるならそうした方が楽でしょう。

「推し活」ってわたくしの中では「自分は何者にもなれなかったので、何者かになろうとしてる人を応援することで、自分の中の消えてしまった夢をかわりに叶えてもらう」と解釈してるんですが、ズレてますか?

だから行き過ぎると気持ち悪く見えるんだろうと。毒親の話とそっくりだから。男性のわたくしからは、ひどく女性的母性的な行動に見えます。

男(というかわたくし)はいつまでたっても何かになりたくて仕方なく、また諦めも悪く、自分で何かをしたくってたまりません。自分が自分であるということに強い執着があります。

あーわたくしもよく「何者にもなれなかった自分」というような表現をしますけど、まあほとんどの人間は何者にもなれないわけですよ。ええ。

なので「何者にもなれなかったので人生つまらん」みたいなことではなく、何者にもなれなかったんで、何ができるかしらねえという感じです。

わたくしは何者でもありませんが、結婚したり仕事したり家事をしたりという現実生活を破綻させないような基盤の元に、絵を描いてると何者かになりたかった自分を思い出して熱くなるんで、それは今、とてもいいなあと思っています。

「この人よりもっといい人がいるはずだ」
「この仕事よりもっと自分に向いてる仕事があるはずだ」
こういうのを青い鳥症候群と言います。

あっちこっち苦労して探し回ったけど、結局幸せの青い鳥は自分の家にいた、という童話に由来します。

これは今の世界とは合わないかもしれない。
よりよい理想を求めて、次々といらないものを切り捨てた方が幸せになれるような世界に見えている。

わたくしは柔軟な人よりも頑固な人のが好きですけどね。
頑固だからって態度も頑固とは限らないですよ。
見えない部分の話です。見えてるところはどうにでもできますし。

恋愛に関しては3年くらいつきあって、もう好きも嫌いも薄まり、なんでこの人とつきあってんのかなあ、くらいの頃から実際の恋愛的なものの始まりなんじゃないですか。わたくしはそんな風に思いましたが。

学生や若い人の恋愛相談にのるかというと、乗ってそうで乗ってません。話す人は勝手にわたくしを呼んで勝手に話します。

だってもうわかんないしなあ。わたくしの恋愛話は大学生の時で終わりです。30年前のそんなもんが参考になるわけがないんで、「どうやったらうまくいくか」なんてわかるはずもない。

ただ圧倒的に人が相談するのは「変な人に絡まれて困っている」「しにたくて困っている」「お金がなくて困っている」まあこんな感じです。これだと話はできます。
そして相談する方は優しくしてくれる人なら誰もいいので、特にわたくしを頼っているわけではありません。

わたくしでなければならない、という人がいるとすれば、それはそういう思い込みです。相談ってそんなもんですよね。

性格はごまかせはしますが治りはしませんので、どの道自分の素がバレて人が離れていくのであれば、最初から思ったこと正直に言って関わらない方が楽だなーと学生の頃思いました。

「いやーん、これかわいー、かわいいよねかわいくない?」
「君はあんまりかわいくないね」

みたいな大分ひどい感じでしたが、これはまた極端過ぎました。
そういう極端な季節もあります。

今みたいに、中年になってほぼ誰からも顧みられなくなってくると、それはそれで人間関係においては楽になった気がします。

わたくしの器が小さい部分として、
大体どんな人であれ、とりあえず話を聞いてしまうんで(キャッチとか押し売りでも)、すぐに自分の受け入れキャパシティがいっぱいになり、キャパが溢れたタイミングで更に難しい話を持ち込まれると、即座にパンクしてしばらく自分の殻から出てこなくなる、という症状があります。

これも子どもの頃から治りませんでしたねえ。
だから優しいのほんの最初だけなんですよ。

改ページ。

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