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「その光。」

例えば「死にたい」と書きたい時があり、
死にたいとそのまま書いた時、
僕は嘘を書いている、
本当は「すべて自分の都合のいい世界になれば生きてやってもいい」
という裏がありそれが本音だがあまりに自分勝手で言えない。
ので死にたいと書くのだ、とよく思いました。

そしてそんな自分にがっかりし、
別の言い方はないものかと探しているうちに
先輩と詩に出会ったのでした。

SNSで死にたいという言葉がNGになっていったのは、
「死にたい」という言葉を目にした別の人間を
実際の死ぬ行動に駆り立ててしまう統計があるからだ、という説明があります。
練炭自殺が流行した季節くらいからですね。

ただそれで「死にたいって書くの禁止」はなんとなく納得がいきませんでした。
今もいっていません。
死にたい人間は、他人に配慮する余裕などないから死にたいのです。
「ああ私の言葉で誰かが死ぬかもしれない」
そんな余裕があるなら死んでる場合じゃない。

過去何度も何度も引用してきた、
「死にたいと書くことで死なないで済むのなら
 詩はクスリみたいな役に立つ」
という詩は、死にたいと書くことで気が晴れるのではなく、
そう書くことで本当は死にたくない自分に
自分自身で気づく効果を指していると僕は解釈しています。

ルールや責任はある程度の人間が集まれば必要です。
でも僕にとって、
ルールや責任の所在を決定しなければならなくなった時点で
もうそのコミュニティには興味がなくなるのが常でした。

だからいつも単独行動。
それを「孤独」なんて甘い言葉で表現しようと思ったことはないです。
ただのわがままですからね。

ああ、死にたいと書いても
その影響で誰かが死ぬかもしれないという可能性を
考慮しなくていい世界がよい。

そんなものはないのでサイトで思う存分死にたいと書き
いつもそんな自分にげんなりしています。

「傍目八目。」

例えば現代の精神医学でいうと
統合失調は脳内のドパミンが出すぎて
神経が過敏になっている状態と定義される、なんて本で読みましたが

そしたら僕たちの高校時代はほぼ
全員統合失調な気もする。

生活に支障のあるレベルからが病気だとしても
生活に支障あったよ、眠れなかったりすぐ落ち込んだり元気になったり。

自分の言ってることがわからなかったり、
妄想で嫉妬したり、勝手に陰謀論を考えたり
誰かが自分を笑っている気がしたり。

恋愛を治療が必要な病気と定義するのが現代なら、
そんな現代の話を僕はちっとも描きたくないな。

「センチメンタル。」

「俺はなるべく働かずに適当に生きるんだうへへ」
なんて友人には言ってますけども。

本当は違います。
多分会社にいるとやらなくてもいい仕事まで全部やろうとして
全然家に帰ってこない状態になり、
さくっと崩壊することが自分でわかっていたからです。

僕は自分の身の回りにいる家族や友人よりも
自分の趣味を優先する趣味人は信用できないし、嫌いです。