「うまくいかないひとたち。」
こういう話をすると、いつだって必ず
「時代が違うよ」と言われておしまいになる。
時代は関係ないと思う。
多分それはみんな知っていて、
つまらない人生とかそういう話をすると
うっかり自分がダメージを受けそうになるから
話そうとしないのだ。
ずっとそういう空気が退屈だった。
ぬるま湯で卑屈になっている君に
いつまで愛想笑いしてやれば目が覚めるんだ?
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こういう話をすると、いつだって必ず
「時代が違うよ」と言われておしまいになる。
時代は関係ないと思う。
多分それはみんな知っていて、
つまらない人生とかそういう話をすると
うっかり自分がダメージを受けそうになるから
話そうとしないのだ。
ずっとそういう空気が退屈だった。
ぬるま湯で卑屈になっている君に
いつまで愛想笑いしてやれば目が覚めるんだ?
よく喫茶店で、
ナプキンにボールペンと珈琲を使って
絵を描いたりしました。
一緒にいる人を描くことが多かったです。
描くたびその場であげちゃうので
手元に残っているものは一枚もないですが、
もしかしたら
今でも持っている人がいるかもしれません。
でももう珈琲の香りはしないでしょう。
僕はiPadでいつも描いていますが、
初期設定で珈琲色のカンバスになるよう、
珈琲をしみこませた紙をスキャンして、
その上からペンで描いています。
まあよい。
思春期には、
一瞬でそれまでの価値観がひっくり返るような経験をする。
その自分の変わりように自分自身がついていけず、
不安になったりイライラしたりする。
ある時唐突に自覚がやってくる。
ほんの何でもない、一人で自転車をこいで帰る時に、
はっと気がつく。
そういうことか、と気がつく。
そうやって少しづつ、僕の世界は大きくなる。
3年前と同じことに。
でもその地味なところに到着するまでに、
派手派手しい、
けばけばしい、
愚かしい、
自分であるという厄介な荷物を
軽くしていく作業がある。
それは一人ではできないことだよ。
どんなに努力したって。
今日も朝になった。
一度眠ってしまうと、二度と目が覚めないような気がして
恐ろしいのだ。
学生の時もそんな気分が続いたことがあった。
学生の時と違うのは、
「二度と覚めない」という感覚が、
とても現実に近いということだけだ。
僕は「逃げていい」なんて思わない。
「死ぬくらいなら逃げていいよ」も正しそうでいて、違和感を覚える。
その違和感は、
逃げ場などない、
一刻の猶予もなく追い詰められた人間に対して、
あまりに他人事で突き放した無責任な言い方に聞こえるからだ。
僕が逃げていいと言う時は、
「ここに、僕のところに逃げてくればいい」という意味であり、
僕自身がその責任をとる、という意味でもある。
それを信用するかしないかは死にたい君自身であり、
それは僕とは関係がない。
僕は「死にたい」と僕を頼る人間に対しても、
常に最初から
僕に君たちを救いたい意思はないこと、
ただの興味本位であること、
ただし、決して鼻で嗤ったり、説教したりはしないこと、
でもただ聞いてるだけではなく、僕の意見は意見として言うこと、
を説明した。
それでも人はやってくる。
それほど追い詰められている。
そしてそんな追い詰められる世界を作ったのが
僕たち自身であるという罪悪感が、
テレビやネットで芸能人が適当にしゃべる、
いじめ体験や不幸な生い立ちやきれい事の「逃げていい」
に対して、
激しい反発を引き起こす。
まだなにかを期待する心が残っていた。
修行が足りない。
僕は与えられたものを面白がれないのです。
自分で見つけたものは、どんなにくだらないことでも
楽しいですが。
自分のことを手紙でよく「私はいじめっ子だ」と書いていたヒカルは、
実際にはきっと正義感の強い優しい子だったんでは、
と僕は思う。
誰もがそうであるように、思春期の問題は
この自分は本当の自分ではない、と思いこむところにあって、
上手くやれればやれるほど、死にたいという欲求が高まるのは
僕自身にも覚えがあった。
ただ、頭のよい子は
まだ知らなくてもいいことを、
随分と早い段階で知ってしまう。
知っていることと精神的な未熟さがくい違う。
その引き裂かれた「自分」と「自分」の葛藤が
思春期の重い憂鬱である。
僕は小中高大学と、最後まで上手くやれませんでした。
最初はいいんですけどね、どうにも続かないのです。
甘えがひどくて、だいたい人をあてにしていました。
それを周囲に悟られないように……というより自分で見てみぬふりをしたいため、
わざと大げさに「独立・自立心」をアピールしていたところがあります。
バックパックで危険な地域を好んで出入りしたのも、
そうした自意識が肥大した結果でしかありません。
専門学校は年齢的にもとっくに逃げられなくなった25歳で
入学しました。
結果的に、僕は唯一この学校と馴染めたというか
無理やり馴染んだので、
楽しい思い出となっています。
そんな横顔をとてもよく覚えています。
僕は誰が何を言おうと、
「一人のが気楽で楽しい」とは思わない。
「人それぞれじゃん?」という聞き飽きた回答を
肯定しない。
一番のぜいたくは何かと考えると、
嫌いな人間とつきあわないということであり、
好きな人間とだけつきあうということだと思う。
そんなに一人でいたいかね。
そんなに自分のことが好きかね。
口では自分が嫌い嫌いと言うが
それは見え透いた嘘だろう。