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「正直者たち。」

**も**さん
長い間ありがとうございます。
いずれ描けなくなる日のことを考えると
どうにも生き急いで描いてしまいますが
どうぞ時折ふらっと覗いてやってください。
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**も**さん
長い間ありがとうございます。
いずれ描けなくなる日のことを考えると
どうにも生き急いで描いてしまいますが
どうぞ時折ふらっと覗いてやってください。

もっと上手くなりたい!と言ってみたり、
いや俺は上手くなることが目的じゃない!と言ってみたり、
どうにも言うことに一貫性がなく、
その日その時の気分による。
そりゃあそうだろう。
誰かに見せたい「こんな自分」が薄れて
外向きに関係を広げて行こうという欲も消えていけば
誰かのための自分を作る必要は特にない。
論理の呪いにかかると
昨日言ったことと今日言いたいことが矛盾している状態を
許せなくなる。
他人の尺度を知りたくて仕方がなくなる。
そして他人の尺度をさも自分の尺度として話す自分も許せなくなる。
許せないということは、つまり常に攻撃態勢だということだ。
それが日本語で言う弱いということなら
弱いままの自分を認めてくれとはやっぱり言えない。



「どうやったら友達できますか」
なんて相談にはうまく答えられない。
それこそ「本当の友達とは」なんて定義をやめて、
1回話したら友達ということにしてしまえば
山ほど友達はできる。
でもそれは違うんだろう?
そういうことが聞きたいんじゃないんだろう?
だから答える代わりに
僕は僕の友達に対する距離を描く。
先輩に対する距離感とは違うはずだ。
先輩やマキタは友達ではない。
友達にはなれない。友達のようなことを話しても。
ナナさんのことは最近まであまり思い出さなかった。
先日思い出箱から何通かナナさんの手紙が発掘され、
その内容によってあっという間にいろんなことを思い出した。
ナナさんは友達だった。
ナナさんにとっても僕は友達だった。
