シリーズ:青春ノンフィクション122P
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「二十歳の原点。」
僕も京都の学生だったので、高野悦子「二十歳の原点」「原点序章」に登場する店、
「ろくよう」やシアンクレールの跡地には行ったりした。
今で言う、聖地巡礼なのだろうと思う。
それにしても二十歳の時って、
どうしてあんなにも虚しく、死にたく、つまらなかったのか。
友達がいても、彼女がいても、いい成績をとっても、絵を描いてもピアノを弾いても、
何も満たされない、あの虚しさは、
とどのつまり「自分は誰でもない、誰にもなっていない」という
不安に由来している。
残念ながらネットのおかげで、そんな後ろめたい背徳的な気持ちは、
たちまち自虐としてネタと化し、
人に読ませるためにTwitterで書きまくり、笑ってもらい、小さく満足し、
あるいは「見てもらっている」という妄想で簡単に自慰できる手段を得た。
でもあの真夜中、どうすることも出来ず、誰もいず、
不安で不安で何も手につかなかった夜、
あれは今にして見れば、人を大事にするために
どうしても必要な通過儀礼だったのだと思う。
孤独であること、
未熟であること。
これは一人で一晩中悶々と噛みしめるところに価値がある。
「本気なんて役に立たない。」
言えば言うほど伝わらないが、
言いたい。
そして言えば言うほど
だめになる。いろんなことが。
「教育。」
基本的に「褒めて伸ばす」はその後に来る「ダメ人間になる」「自分で気づくまでダメなまま」を
セットにして考えるべきだ。
僕は自分の一挙手一投足を大げさに全面的に肯定された育った結果、
常に顔面に汗をかいている高校生となった。
僕がこの呪縛から逃れるのはいつか。
まだ逃れていない気がするんだ。
ただ、この方法で育つと、
しにたいほど落ち込んでも絶対にしなない、
しにそうになると自分の都合よく自分を全肯定するスキルが発動し、
何をやってもバラ色になる、という利点がある。
僕はいつもバラ色だ。
ただし、そのバラは咲かなかった。