ページ内の表示数

1:2020.10.10 (15:55)

「よいものだよこれも。」

新鮮味もなくなって、なんだかだるい空気に包まれる。
それはそれで僕は好きだったし、
そういう時ならではの気まずさとか不安とかが、
また養分になって人と向き合う養分になってゆく。

一度すごく好きな人とつきあって別れたことがあれば、
もしかしてまた同じようになるかと思うと
怯えて踏み出せない気持ちもわからないではないが、

結局何度も出会いと憂鬱と破滅をゆっくりと繰り返し、
一連の流れの中で、自分を飾らないことを覚えていくのだと思う。

いつも言うけれど、
飾らない自分でいられるかどうかは自分の心がけではない。
飾らないでいられる人間に会ったか会わなかったかだけの話だ。

3:2020.10.16 (1:30)

「本当に好きになるのはずっとずっと後の方。」

高校生の時のように、
ただ自分を認めてもらうためだけの一方通行の恋愛が
自分の中で反省と共に消化されると、
人を好きになるタイミングがどんどん後の方へずれてゆく。

自然体でいることは、
自然体でいようとしているうちはできない。

多分僕たちが「自然体の自分」と呼ぶものは、
何度も痛い目にあい、そこから回復することを繰り返して、

色んな人間の中の出来事に、
すべからく慣れた状態のことなのだと僕は思う。

4:2020.10.17 (21:14)

「素直の練習。」

「さみしい」という感情が本当にぶっ壊れてて、
好きなことやってる方が幸せというなら、
何も文句なんてないし、それでいいと思う。

僕の周りにもそんな人はたまにいますが、
話すことがないので仲良くはなれません。

でも僕が見ている人間の大概は、
青春の蹉跌をサボって「僕は・私はさみしくなどないのだ」と
無意識に言い訳しているだけに見えることも多く、

「わかってほしい」というテレパシーを、
どこからか発していたりする。

なんてことを言うと怒る人もいるが、
その反応が何より気にしている証拠でもある。

会いたいとかさみしいとか、
好きとか嫌いとか、そんなものは、
簡単に文字にして外に排出してよい感情ではない。

自分で気づいた時には遅すぎることだってあるんだ。

ごくまれにお知らせを送らせてください。 はい いいえ