「贅沢。」
人から優しくしてもらったこととか、
世話になったこととか、
それも忘れてはいけない大事なことかもしれない。
でもきっと僕のしあわせは
そんなイベントとは関係のない、
ただの「おはよう」だったのだと思う。
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人から優しくしてもらったこととか、
世話になったこととか、
それも忘れてはいけない大事なことかもしれない。
でもきっと僕のしあわせは
そんなイベントとは関係のない、
ただの「おはよう」だったのだと思う。
元々勉強のよく出来る人が壊れると、
壊れた勉強の残骸がとめどなく流れでてきます。
幸せでも不幸せでも、
いつだって怖いよ。人間と関わるのは。
20代の時は自分の背景に流れているBGMがあるとすれば、
それはバッハの無伴奏パルティータだ、と
頑なに主張していましたが、
今思うと多分「おじゃまんが山田くん」だった気がします。
僕は自分が失敗して痛かったことばかりを
描きたがりますが、
しあわせな時間もたくさんあって、
でもそれはとてもとても小さくて地味な、
僕だけのしあわせなのです。
もう20年もこんなことをしている。
ちょっと格好をつけさせてもらうなら、
本当は当時いくつかの会社からうちに来てくれという話はあった。
就職すれば「新婚でいきなり文無し」の現状から脱出できる。
ちょっと考えた。
でも多分、それをすれば僕は仕事に没頭し、
会社に泊まりこんで倒れるまでワーカホリックの道を歩いただろう。
結局僕は丁重にお誘いを断り、ずっと家にいるフリーランスの道を選んだ。
それが正解かどうかはわからない。
うんざりすることもあるけれど、
でも僕は概ねしあわせだ。
「好き」は脳のエラーだと言う。
きっとそうなんだろう。
それがわかったところで僕はやっぱり人を好きになり、
そして嫌われて傷つく。
そんなに遠くへ自分を引いてみせるばかりで、
一体君たちはどんな人間になりたいのだ。
僕たちは減点方式で評価する考え方が身についてしまっている。
テストだって0から積み上げて加点していくのではなく、
100があって間違いを減点していく。
だからいつも世界は完全でなくてはならず、
欠けたものを埋めるために時間と努力を払う。
「みんな違っていい」という口当たりの良い願望を
本当に行動へ反映できる人間などほとんど見たことがない。
ヨシダはとてもいい子だった。
いい子だからうまくいかなかった。
僕は自分の思っていることを言葉に表すのが割と好きだし、得意だ。
だから必要のないことも語りつくそうとし、
後で何もわかっていない自分に絶望する。
いいこともわるいことも、
言わずに黙っていていいのだと思う。
何もかも説明を要求される今、
説明できないことを切り捨ててはいけないのだと
僕は思っている。
最初から完璧か、そうでなければ完全に無視か、
そんな0と1しかない価値観から
脱皮する機会さえないのはきっと不幸なことだと思う。
予防ばかり一生懸命になっていると
心はどんどん小さくなるばかりなのに。
いつも肝心なところで自分に言い訳をして勝負を避ける。
それがどういうことか、どういう結果になるのか
自分でもよくわかっている。
だからどうしても
「逃げていいんだよ」と人には言えない。
嬉しいと人に言いたくなることは僕にもたくさんあるけれど、
人に言いたくないことだけが僕にとって大事なことだ。