「本質。」
そして「君」と話すことはもう二度とできないという事実が、
つまり、感傷というものの正体なのだろうと思う。
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そして「君」と話すことはもう二度とできないという事実が、
つまり、感傷というものの正体なのだろうと思う。
人を好きになれない人間の言葉は
常に拒絶と防衛に終始する。
自信なさげな自分を演じてはいるが、
ひどく傲慢で自尊心だけが高い。
それに自分でまだ気づいていない季節なら
そこから別の道を歩むこともできる。
わかっていてそうなら、
多分もうどうにもならない。
卒業から30年が経った。
思い出の時系列はあいまいとなり、
僕にとって大事な記憶だけが
映画のワンシーンのように鮮烈に残る。
君を描いているのを知られて
嫌われるのが怖かった。
でも心のどこかでは
知って欲しかったんだ。
いつも。
大人でいようと思うのはいつの時代も子供だけ。
関係ないことに首つっこむな、やめろ、やめろ
と心の中で叫びながら首をつっこんでいく僕は
嫌われたよ。そりゃそうだろう。
義理人情とか面倒見とか
そんな風にいい方へ解釈してくれる人もいたけれど、
違うんだ、
僕はただ、さみしいから首をつっこむんだ。
君たちが「自分はだめだ」「自信ない」「つらい」
と言うのをあまりにも目にし過ぎて、
共感も同情も何も感じなくなってしまいました。
これでよかったんでしょうか。
僕にも自信なんてありませんけどね。
自分が何をして、どうなれば楽しいのかはよく知っていましたよ。
90年代前半に高校生活を過ごした僕にとって、
屋上で誰かと話をすることはファンタジーではなく
ありふれた日常生活だった。
互いが無関心でいられないことも、
ちゃんと怒ったり笑ったり泣いたりすることも、
ごくごくありふれた日常の延長だった。